古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

国司御一行様赴任旅の乗物と石山寺縁起絵巻

               

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身分のある男性は騎馬、

下人は徒歩

身分ある女性は手車や手輿

一部の女性は騎馬

と考えられているようだ。

その根拠は?というと石山寺縁起絵巻の絵にあるもよう。

だがしかし、

この絵巻は鎌倉時代末期に描かれた想定画。しかもビグネームの石山寺参詣を描いたもの。

 

 

世の中の風景は100年200年たてばずいぶん変わるし、都に近いところと僻地山間部では

大きく変わるのではないか。

今昔物語は信濃守(938年就任)が帰任途中御坂で馬もろともに懸け橋から谷底へ落ちてしまったことを書いている。

とても全部が全部、石山寺縁起絵巻のように「雅」な旅形態ではなかったと思うが。

 

なお、正岡子規明治23年に行った東京本郷から下総→上総→安房の旅では鉄道(一部)、騎馬、徒歩、船を使っている。

足はわらじ、雨具は蓑と、あまり江戸時代と変わらない。

そうだ東京へ行こう⑳~㉓ 芸術新潮、目白聖公会、徳川ビレッジ、終章

⑳「細川家 美と戦いの700年」

 

「細川家 美と戦いの700年」という特集があった雑誌・芸術新潮は反響がよかったのだろう。再編集、増補されて単行本になっていた(「細川家の700年 永青文庫の至宝」新潮社1700円)。

    

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これを踏まえてもう一度永青文庫の項を。

その本にはドキッとした細川護立侯と新橋の粋筋佐久間幸子さんのツーショット写真も再掲載されている。彼女と、孫、護熙さんとの会話を読むと佐久間さんが相当なレベルの美術愛好家であることがわかる。

能力とともに白洲正子さん同様殿様(護立侯)から良い指導を受けたからだろう。週刊誌的な興味から見始めても終わりには考えを改めることになる。

 また、内側にいた護熙さんからの飾り気のないストレートな話を聞ける点もこの本のいいところである。

共感するところも随分ある。

さて、護熙さんの生まれた上御殿と言われた建物(高台の洋館)は、今、和敬塾本館になっているが、正面玄関の方が雰囲気が伝わるのでその様子を。

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大きな池に船が浮かび、放し飼いの孔雀が何羽か庭を闊歩していたという下御殿は、文京区立新江戸川公園になっている。その入口と門の様子を。

  

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写真の上の方に見える高台のところに永青文庫がある。日中は両者間の門があいているので自由に行き来できる。

 

 

 永青文庫の資料は大別して、大名としての集積と護立氏の収集したものがあるが、もともと、すべてがそこにあるわけではなく、熊本大学付属図書館や慶応大学にも寄託等されて調査研究されている。

さらに、2008年4月には熊本県立美術館に永青文庫展示室がオープンして、そちらへの出品があり、また、海外への出品も増えているとのことである。

「開かれた美術館」を目指していることにかなうものであろうが、反面、至宝の展示を期待して永青文庫に行っても見当たらなくて残念ということも生ずることになる。

 他の小さめの美術館にも通じることであるが、運営する人はその点のバランスを考えたほうが。

 護熙さんの「保存にはそれを伝えようとする強い意志とともに,運が大事だということを思わずにはいられない。」のお考えに100%同感。

もし冷泉家が東京へ来ていたら関東大震災か東京空襲で数多くの国宝は消えていたと思う。

これに関連してもう一つの、「永青文庫のある目白台あたりは、日本のカトリックの総本山にあたるカテドラルがあるため爆撃をまぬがれた。」には複雑な気持ちが。

人権は世界共通の平等なものと言いながら爆撃する側と同じ宗教の施設には恩典を与え、そうでないものには容赦なく焼夷弾を投下するという論理、それって説明がつくのであろうか。単純に受け入れてよいものであろうか。

先日のイスラエルによるイスラム施設への爆撃に対するブッシュの賛意と通じるのではないか。

 

 

 №㉑ 目白聖公会

 

山手線内を少し出るが、目白駅の少し先の目白通り沿いに何とも言えない魅力ある教会がある。

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目白聖公会という。東京カテドラル、あれはあれでよいが、これはこれでよい。小さく古風で身近に感じ

られる分、こっちの方がいいかも。

このロマネスク様式の聖堂は1929年(昭和4年)に建立され、戦災も免れ!東京の聖公会の教会中戦前

からある唯一の建物とのこと。

ところで聖公会って何?基礎教養がないので少しだけ学習した。

一口で言うとローマ・カトリックプロテスタントの中間で世界で3番目に大きな伝統的キリスト教会と

のこと。

日本では11の教区に分かれ、その一つ東京教区には目白聖公会など33の教会といくつかの礼拝堂があ

るとのこと。

関係する有名な学校・組織として立教大学やあの聖路加国際病院があげられる。

教会のHPにはわかりやすいQ&Aが用意されているので関心ある人は読むといい。

(抄) キリスト教会は10世紀頃、大きく東西に分かれた。ローマを中心にした西方(カトリック=普遍的)教会とコンタンチノポリスを中心とした東方(オーソドクス=正統的)教会に。

 西方教会の伝統はローマ・カトリック聖公会プロテスタント諸教会に、東方教会ギリシャ正教会ロシア正教会コプト教会等に受け継がれている。

 

№㉒  徳川ビレッジ

 

この目白通りを中心とする小さな旅も終わりに近づいている。

これまで見てきたお屋敷、元は大名下屋敷というのが多かった。

では幕藩体制の幕府方、すなわち徳川家にゆかりの場所はないかというと、おおいにある。

尾張徳川邸が5000坪を超える規模で形を変えて息づいている。

徳川ビレッジといわれている箇所がそれである。

 

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外国人用の高級賃貸住宅、女子学生寮、名古屋の徳川美術館の運営本部、財団法人徳川黎明会などがある。

尾張は将軍こそ出なかったが、今現在も水戸徳川家ともども元気に活動しており、頑張っている。

江戸から明治、旧憲法下から現憲法下へと社会体制の激変の中での都心での存続、よほど優れた人がいたに違いない。

たとえ、養子でも、その家に入ることによってDNA的なものを受け継いだのではなかろうか。

ちょうど同じ地方出身の学生でも個性のある大学に入ると自然とそれぞれの大学カラーに染まるように。

HPでは随分と内容をオープンにしている。

若き22代当主義崇氏はHPで職歴その他の詳細な自己紹介を行い、写真まで公開している。なかなかできることではない。

プレッシャーに負けない能力・体力、プログラマーとしての実力を持っている。

   義崇のページ  http://www.tokugawa.org/~toku/faq.html

 

 

№㉓   終章

 

お茶の水から目白まで、22景にわたって歩き、紹介してきた本シリーズも、終わりを迎えることとなった。

お付き合いいただき、御礼そして感謝。

超高層ビルの集まるオフィス街でなく、ブランドショップの林立する老舗の街ではなく、若人が集まるファッショナブルな街でもなかった。

ただ、江戸時代からの一定の歴史があり、落ち着きのあるところをと選んだ。

これが平均的な庶民の棲む街かというと、もちろん違う。

が、たまにはいいだろう。京都へ何かを求め行く人は少なくない。

その何かに近いものがあるところと確信する。

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今回の写真には、狭い道、軽トラック、自転車、木枠のガラス戸、懐かしいお店も見える。

これは昭和30年代?、それとも北関東、JR高崎線の駅裏シャッター通り商店街か?

違う。目白台を下ったところの現在の町並みである(2008年12月撮影)。

 

(2021.3.21)

古代道路の道幅

 木下 良氏は日本古代道路辞典序1の(1)「誤解されていた古代道路」で次のように述べる。

 1970年代に日本でも古代道路が直線的路線をとって計画的に敷設された大道であったことが指摘されるようになるまでは、日本の古代道路は自然発生の踏み分け道を幾分拡幅整備した程度の、道幅もせいぜい1~2mの屈折した小径であったと考えられていた。

 氏は、江戸時代の幹線道路である5街道でも歩行者の通行を主体として道幅も二間程度の屈折の多い道路であったことを前提にして近世の道路から見て千年以上前の道路だからという想定を批判し、古代の都城や条里制も根拠に挙げている。

 

 確かにそうかもしれない。しかし何が何でも広く直線的でなければ官道ではないとするのもいかがなものかと思う。

 地形的、物理的に狭く、屈折せざるを得ないところもあろう。

 ローカルな伝路を格上げしたものでもともと狭く、それを後に拡幅する人的、財政的ゆとりもなかったということもあるだろう。

 何より千年経った2021年現在でもこれが国道か、という酷道ぶりがニュースやユーチューブで取り上げられることが少なくない。

都の近くではいざ知らず、遠い僻地の山あいの中で広く直線的な道など期待可能性は低いのがむしろ素直な解釈ではなかろうか。

下手をすると戦後昭和に入ってあちこちにできたバイパス道路が広くまっすぐだからと誤解を受けかねない。

そうだ東京へ行こう⑭~⑲ 日本女子大、酒店と富士見坂・日無坂、鬼子母神表参道と宿坂、千登世橋と都電荒川線、目白と学習院

⑭ 田中邸
  

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同じ田中でもこちらは総理大臣になった方。本コースで3人目の元総理大臣宅となる。
門が二重であるのは昔と同じ。が、新しくモダンになっていた。前のはタイルかレンガでもっといかめしかった。
本人生存中は、裏へ回ると、ザーッと錦鯉のいる池に水を落とす音がしていた。
総理大臣になった時は裏にも警官が立っていた。
今、右には日本女子大の会館が建ち、左には物納で納めた敷地跡に区が公園を造っている。
二つの門の間には真紀子さんらしい署名を求めるアピールが。
賛成の方は署名を

 

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そうだ東京へ行こう⑮ 日本女子大
目白の女子大といえばここ。

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誰でも知っている有名な卒業生を2人あげるとすれば平塚らいてうと橋田 壽賀子さんだろう。
日本中の大学がそうだが、どこもピカピカの高層校舎が建てられている。
正門左には創立者を顕彰する成瀬記念館が出来ていた。キリスト教との関係を特に言いたい雰囲気。


裏にあった古いなんかの記念の家屋に魅力を感じた。

 

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家政学部に住居学科があって結構有能な建築家が出ている。大学としての差別化に功を奏している。

そうだ東京⑯ 酒店と富士見坂・日無坂 


 日本女子大の前を少し、目白駅に向かって進む。
 すぐに、目白通り不忍通りの合流点、目白台2丁目交差点に着く。
 

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 ここに古風な鳳山(ホーザン)酒店がある。中にはこれまた古い丸い掛け時計、一段高くなっている畳の箇 所もあって不思議に思われるほど懐かしい。
 左隣にはビルが迫っており、見下ろされている感じ。
 このままお店が維持されればビルに挟まれた一軒家となってアメリカの絵本の世界になる。
 期待したいが、難しいだろう。
 酒屋の右脇には急坂が。

  

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 二つに分岐して真中に日本家屋があって面白い構図だ。
 左側は日無坂(ひなしざか)と言い、文京区目白台1丁目。右側は富士見坂と言い、豊島区高田1丁目となる。富士見坂の奥,電柱の後ろには西新宿超高層ビルが見えている。

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 追記
このスポット、誰が見ても印象深いせいか、多方面で取り上げられている。
特に左側の日無坂は江戸時代からのものなので多くの文章になっている。
半年前(2008年6月)には、安住洋子さんが「日無坂」という題名の時代小説を発表している.

(新潮社)。http://www.shinchosha.co.jp/writer/3702/

そのコピーをみて、エー!!
「伊佐次は老舗の薬種問屋「鳳仙堂」を継ぐはずが、勘当され、」
鳳仙堂とは「鳳山酒店」をヒントにしたに違いない。(09.1.11)

 ⑰ 鬼子母神表参道と宿坂

少し進むと高田一丁目交差点に着く。
ここらあたりまで来るとかなり庶民的な雰囲気になってくる。
右手には鬼子母神表参道入口が見える。

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原宿の表参道と違って下町のアーケード商店街入口そのものといった感じだ。
鬼子母神まで行くには、結構歩かねばならないが、都電鬼子母神駅、ケヤキ並木(傷みが目につくのは残念)の風景を見ることができる。

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鬼子母神参道入口の反対側(目白駅に向かって左側)は、宿坂という下り坂の入り口となる。
この道は、中世からの古い道である。
降りてゆくと途中には、金乗院南蔵院といった寺社があり、先は面影橋につながる。

面影橋といえば、歌謡曲かニューミュージックにそういう題名の曲があったと思う。

 

そうだ東京へ行こう⑱ 千登世橋と都電荒川線

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唯一東京に残った路面電車である。
新聞地方版、雑誌その他に載ることも、ファンも多く、沿線商店を含め、やや、すれている面もないことはない。
千登世橋は都電、明治通りをまたいでおり、千登世小橋から見る専用軌道を走る車両の姿は様になっている。
お台場に行く無人運転ゆりかもめと対照的な乗り物だ。

 

 

 

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 ⑲ 目白と学習院
やっとJR目白駅に着いた。

 

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すぐ脇に広大なキャンパスを持つのが学習院(ちなみに道路の反対側には川村学園がある)。
このあたりは駅前広場の地図がわかりやすい。
広く、しかもJRの駅に隣接している点は東大以上に恵まれている。
2009年正月、TVではやたらにピラミッドの特番があったけど、このキャンパスにもピラミッド校舎
があった。が、今は取り壊されて無い。
前川國男氏の設計であったことを後になって知った。一度入いることがあってよかった。
キャンパスで誰もがギョッとするのが、血洗池という名の池。

 

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堀部安兵衛赤穂浪士)が高田馬場での仇討の後、血刀を洗った池、との風説をそのまま引用している人
も多いようであるが、学習院大学新聞が、かって高校の生徒がいい加減に書いたものと明確に否定してい
る。
なお、目白台は文京区、目白は豊島区である。

 

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資料2 ネット検索可能な資料

 

 更級日記千年紀2020

更級日記紀行

神が宿るところ

東海道へのいざない

松戸読売814号

鎌倉街道・下総道下道 市川~松戸

 菊間古墳群

猪鼻城跡で検出された古墳群について OPAC 千葉大学

 

(神奈川における駅路に関する一考察)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejhsce/69/1/69_61/_pdf/-char/ja

古代から続く道、「中原街道」の歴史とは? 

ブルーのブログ第246回・国道246号

 

 

そうだ東京へ行こう⑩~⓭ 田中光顕旧居、関口芭蕉庵、胸突坂、目白通り

 

そうだ東京へ行こう⑩ 田中光顕(たなかみつあき)の旧居、蕉雨園

写真右側に見える簡素な塀は永青文庫

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左側に見える長い塀はどこのお屋敷か。

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塀越しに蔵や使用人用?の木造住宅の軒先を見ながら少し目白通りに向かって戻ると立派な門が目に入る。


そう、田中光顕の旧居、蕉雨園である。
公開していないこともあって椿山荘の山縣有朋ほど知られていないが、この人も波瀾万丈の無視できない歴史上の人である。
ろくに白米を食べられず、まともに侍扱いもされなかった土佐藩下級武士出身。
イデオロギー的理由から叔父が及んだ藩の上士、吉田東洋暗殺事件にも関与しているとされる。
高杉晋作黒田清隆中岡慎太郎らとの関係・交流があり、多くの武闘に加わっている。
坂本竜馬暗殺の場にも駆け付けたそうである。
革マル・中核の内ゲバ殺人がより大規模で行われたようなものであったのか。
血なまぐさい実戦歴とともに文化活動も行っている。
維新後は大役につき、内閣書記官長(今の官房長官)、警視総監、学習院長などに就任しているが、11年の長きにわたって宮内大臣に就いたことは大きい。
 早大図書館は国宝・重要文化財になる貴重資料の寄付を受け、今尚感謝している。まあ、国宝をもらえたらこんない嬉しいことはないであろう。
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/kouken/2006exb03.html
 HPに公開されている西郷隆盛の書を見て驚いた。こんなにみごとな書を書ける人とは! そしてHPで公開してくれていることに感謝!文化財は国民共有の財産。全国の図書館・博物館様よろしくお願いします。

 

 

 

 

そうだ東京へ行こう⑪  関口芭蕉庵と水道工事


 1 田中光顕伯爵邸の南続きで丘陵を下る途中から神田川に面する道までが芭蕉庵となっている(管理はここも講談社)。
川の反対側から見ると芭蕉、すなわちバナナの木が数本見える。

 

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立派な表門は普段は閉ざされており、左脇の小さな(といっても普通の民家程度)から入ることになる。
芭蕉庵内部の家屋は何度か火災にあっており、比較的に新しいものである。
芭蕉の崇拝者は多く、後付の石碑、植物が多い。思った以上に広い立派な和風庭園となっている。
2 ここで芭蕉とこの庵について触れたい。
次のように説明されることがある。
松尾芭蕉は34歳から4年間ここに居住して神田上水の改修工事に加わった。芭蕉は伊賀藤堂藩の武士であったのであり、藤堂藩は築城・土木・水利技術に長じていたので、芭蕉が工事監督として神田上水の改修工事に関係したのも納得される。”
私は以下の点から少々疑問に思う。
・彼は藤堂藩伊賀付さむらい大将藤堂新七郎良精(5千石)の嫡子良忠に仕えていたが良忠は25歳で病没し(芭蕉は23歳)、ほどなく到仕(仕事を辞めること)している。
主君とともに俳諧の熱烈な愛好者であり暇があれば俳諧を作っていたものと推察される。武士のたしなみとして、剣術、書道、四書五経的なことはお勉強していたであろうが23歳までの間に果たして土木・水利まで勉強する時間と意欲があったのであろうか。
・改修工事がなされたのは事実であるが、それは幕府から命を受けた藩の工事なのであろうか。江戸時代の説はあやふやなのものがあるので、幕府あるいは藤堂藩の文書で裏を取る必要があると思うが。
・仮に藩による工事としても、芭蕉は二男で兄が家督を継いでおり、兄を差し置いて監督という大切な職務に従事するものであろうか。
・長くなるのではしょるが、工事は町人が取り仕切っていたものであり、芭蕉は川さらいなど現業的職務に従事していたとの説を取る。
 芭蕉崇拝者はいい気持がしないかもしれないが、現代でもオーバードクターのアルバイトがあり、決しておかしいこととは思えない。何年か前の関東のローカルニュースにしかならなかったが東工大大学院生がアルバイトの道路工事中、車にひかれて死んだことを知り気の毒に、と思ったことがある。
・水番小屋に寝泊まりしていたとしても、それが本意の従事なら句に詠う、あるいは文章に残すであろうが、その点はどうなのであろうか。
3 宮尾しげお氏は「芭蕉庵といっても芭蕉が住んでいたわけではなく、1743年の芭蕉50回忌を追福して白兎園宗瑞と如是庵馬光が発起人となって建てたもので、かって芭蕉がここで近江の瀬田に似ているといって「五月雨にかかれぬものは瀬田のはし」という句を詠んだのにちなんだと言う。」と述べている。

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そうだ東京へ行こう⑫ 胸突坂


 ぜひともお勧めするこのコース最高のスポット。地元の人、職場・学校が近い人は知っているがそうでない限りあまり知られていない。
修学旅行で東京へ来る場合は寄ってほしい。時間がなければJR目白駅で降り、都バスで椿山荘まで行けばよい。
都内に由緒あるナントカ坂は多い。が、多くは車道となり昔の面影はない。
ここは細く、急傾斜で、車道とならなかったのが幸いであった。雰囲気が残っている。
昔の雰囲気だけではなく今も生きているスポットである。
これまで見てきた和敬塾永青文庫、新江戸川公園、水神社のラインと蕉雨園、関口芭蕉庵に挟まれた狭い急傾斜の坂道である。
ただ、それだけのこと。しかし昇り降りした人を考えると凄いではないか。
旗本が通った。
大名も歩いた。
芭蕉も田んぼを見ながら詠んだ。
明治の元勲 山縣も、田中光顕も散歩した。
後で総理大臣となった田中角栄細川護煕も歩いた。
もちろん、田中真紀子も。
永青文庫に来たついでに白洲正子も。
村上春樹も通学に昇り降りした。
写真は上からと下からのもの双方を載せた。

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次の写真右側は芭蕉庵の普段の入口。左の粗末なフェンスは水神社手前駐車場のもの。芝生部分が水神社境内の縁。

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文京区役所も、歩きやすく整備し、説明の文を敷設している(写真)。

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今、坂と橋(駒塚橋)が直線につながっているが、かってはずれていた(地図参照)。

 

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そうだ東京へ行こう⑬ 目白通り

    
ここら辺で建物ではなく、沿って歩いている目白通りの雰囲気をお伝えする。

 

       

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どういうわけか平日でも、車、人とも少ない。
もっとも、目白駅に近づくにつれ雑然とし、並みの道路になるが

 

 

そうだ東京へ行こう⑦~⑨ 野間清次と「大正大震災大火災」 和敬塾と村上春樹  永青文庫と細川家

 ⑦  野間清次と「大正大震災大火災」


上品なフラワーショップ右隣のこの邸宅にはかって、野間という表札がかかっていたと記憶する。
奥深く閉ざされた門を見て大出版社の社長宅ともなると違うもんだと感じた覚えがある。
2000年4月以降ここが講談社野間記念館となって公開されていることは最近まで知らなかった。

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創業者の収集した美術品を保管陳列してあるそうで、何だか隠れ美術館という感じがして魅力がある。
そこで行くことにした。当日は、あわせて歌人の旧宅もあった一般住宅街も見たかったので先に道路の反対側の小道に入り、少し散策した。


その途中、突然異様なお化け屋敷のような廃屋が目に入いった。異様だが倒壊しかけたレンガ塀は美しくもあった(これについては後でお話しする。)。

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このあと記念館に入った。著名な日本画家の作品や貴重な出版資料が展示されており興味深く拝見した。


ガラスケースの中に「大正大震災大火災」という書籍があった。表紙絵は横山大観が描いたそうだが、この出版は講談社にとっても大変に意義があるそうで(社史には必ず触れられる。)、何やら長い説明文が壁にかかっていた。
おや?と思った。どこかで見た記憶がある。もしや?
家に帰り書棚を探すとその初版本があった。実に84年前祖父が買い求めたものである。
祖父の本は殆ど神田の古書店に売却し車で持って行ってもらったが、わずかに遺品として残っていたものであった。

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震災後1カ月で発行されたことが信じられない、神業としか思えないような極めて濃い内容である。
後藤新平(内務大臣)、渋沢栄一、福田雅太郎(関東戒厳司令官、陸軍大将)の書、三宅雪嶺幸田露伴等の序文、与謝野晶子の短歌、大町桂月の文、軍作成の被災地図、数多くの写真と記事、発布された諸法令など、公的報告書+読みやすい雑誌双方の性格を兼ね備える一級のものである。
この本は資料的価値があるようで関係学会でもまな板にのる資料となっている。しかし一般には知られていないのは内容からして残念なことである。知ってもらうべきものと思う。
別に項目を立て順次紹介することにしたい。


 その2 ミステリーなこと
3万人以上の焼死者を出した本所の被服廠で「死体の取り片づけの人夫が、鳶口で死骸を掘り出しているとき、重なり合った死骸の間へ鳶口を打ち込むと、けたたましい子どもの泣き声がした。」「母親らしい女の死骸に抱かれている3歳ばかりの女の子がでん部に血を出して泣いてい」たそうだ(「大正大震災大火災」)。
掘り出され入院した先が、「大学病院の分院」。何と野間記念館に行く直前に見たお化け屋敷すなわち東大病院分院であったのだ。
 84年前の出来事が私の中でぐるぐるまわったミステリアスな1日であった。
 なお、東大病院分院も平成13年に組織的には無くなっており、建物も間もなく取り壊されるとのこと。たまたま散歩に出かけ、解体される前の分院時代の建物を見ることができた(3枚目の写真)。

 

⑧ 和敬塾村上春樹

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椿山荘を出てすぐ左にあるのが野間記念館、そこを出てすぐ左にあるのが和敬塾
旧細川藩の下屋敷前川製作所が昭和30年に購入し、男子学生寮としたもの。
現在50大学の学生がいるそうだ。
和敬塾という名は学生時代も何となく耳にしていた。が、どことなく右翼っぽいイメージがし、また単なる地方出身者用学生寮に過ぎず、取り立てて中を見たいとは思わなかった。
イメージが変わったのが1987年発表の「ノルウェイの森」から。
小説は発表後10年以上経ってから、ノルウェイに行くとき語呂合わせ的に機内で読んだ。
ずいぶんポルノ的シーンがあるんだなーという印象を受けた。
これを世界の子女が感激して読んでいるんですか。
どうも関西人的ものの見方、翻訳小説的なまどろっこしいセンテンスは苦手だ。
いずれにせよ、村上春樹ノーベル賞を取ったらこの寮は大騒ぎになることだろう。
門構えは変わっていなかったが、新築工事中であった。FIより学生寮の方が広く人材育成に連なって企業イメージはよいし、なるほどと思う。
学生は中で人に会うとこんちわ、と言うそうで、私もそう言われたのでコンチワと答えた。
学生らしく、あちこちにバイクが置いてある。

 

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和敬塾本館(上の写真)は旧細川侯爵邸で総理大臣になったあの細川護煕さんも子供のころ住んでいたとのこと。

おや、このコースで総理大臣は2人出ていると思っていたが(鳩山一郎さんと田中角栄さん)、細川さんも入れて3人となる。高い確率だ。


歩いていたらドングリが落ちてきて工事用の板にあたってコーンと音がした。都内とは思えない恵まれた環境だ。
ここで学生時代を過ごし、学者になった知人がいたことを思い出した。長年会ってないけど今どこで何をしているのだろうか。
次の写真は次回に述べる永青文庫から見た学生寮

 

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 ⑨ 永青文庫と細川家

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1 和敬塾の奥というか前というか裏というか、とにかく隣にある。
住所は文京区目白台1-1-1であり、本来、目白台の主であった存在だ。
それが住宅地図を見ればわかるが、かって4万坪近くあった土地も目白通りに面する広範な土地は前川製作所和敬塾に、神田上水に面する広大な平地は新江戸川公園として文京区のものになり、両者に挟まれた小さいものになっている。おいたわしい。

 

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美術品の収集にお金を使いすぎたのか、はたまた尾張徳川家のようにうまく社会大変動を超えて財産を維持する手立てを考えられなかったからなのかわからない。
18代は総理大臣になったので何となく裕福かと思っていたが、どうやらそうでないみたい。
2 公開されるようになったのは昭和47年からだからそんなに古くはない。

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数か月前だったか、芸術新潮に細川家、そして創立者ともいえる16代細川護立氏のことが特集されていた。手に入るなら求めると良いと思う。
白洲正子さんに興味があるなら、彼女は護立氏に師事していたこともあるので、行かれると良い。
 建物は残念ながら老朽化しており、空調をはじめとして十全とはいえない。
 地元九州に空調、耐震性の点で最高といえる国立博物館ができたたこともあり、そちらへの委託も考えたらどうであろうか。

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更級日記と池田の池

吉野秀夫氏は数冊の研究成果を本にまとめて公にしている。

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更級日記の「いかたというところにとまりぬ」の「いかた」という地名の場所解明に重きを置き、さらに関連する地名や詳細なルートについて見解を述べている。

驚くほどの情熱、ボーリング調査まで厭わないその科学する精神は専門研究家もたじたじとなるのではないか。追随を許さない。

読書も広範に及び、梅原猛さんの「歴史学はしょせん資料と想像力との格闘の学問」なる言葉も教えてくれる。

 もっと知られてよいと思う資料だ。

そうだ東京へ行こう⑤~⑥ 東京カテドラル聖マリア大聖堂  椿山荘(ちんざんそう)

⑤ 東京カテドラル聖マリア大聖堂


 いよいよ核心の目白通りに入る。
 目白通り武蔵野台地の端、関口台地を通る。
 高台で見晴らしがよく、江戸時代は多くの大名下屋敷があった。
 従って、近畿に比べれば浅いものの、400年の街としての歴史はあることになる。
 今でも緑が多く、落ち着いたいい街である。
 ここには丹下健三氏の設計した教会(カトリック)がある。

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 外も中も荘厳で、華美でなく、すぐれた宗教建築と思う。

 

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 拝観料・入館料は取らず、広く館内見学を認めている。
 宗教は異なるが伊勢神宮外宮と同じように好感を持てる。

 

⑥ 椿山荘(ちんざんそう)


東京カテドラルの道路反対側にあるのが椿山荘
江戸時代は上総久留里藩3万石の下屋敷であった。
久留里と言えば鉄道マニアなら今でも千葉県中央部に走る久留里鉄道でピンとくるのではないか。その
久留里である。
その後、長州の下級武士出身にして明治の元勲となった山縣有朋のものとなった。彼は庭好きでも有名で京都にも名園を作っている。
山縣は高台から近くの大隈邸を見下ろしていたであろうが死んだあとは仲よく護国寺に似たお墓を作って眠っている。
大正に入り庭は藤田平太郎男爵のものになった。今の藤田観光(ワシントンホテル係属)につながる。
この20年でもずいぶん変わっている。庭と結婚式場に高級ホテルも併設された。
広い庭は魅力であり、ここでの挙式を望む人は少なくない。私の知り合いもここで挙げ、出席したことがある。

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写真の羅漢石はあの若冲(じゃくちゅう)作とのこと。この人、石まで扱うとは知らなかったが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像の制作に力を注いだらしい。これを見るだけでも価値があるのではないか。他に移築した室町期の三重の塔もあり、ただで鑑賞できるのはありがたい(あまり言うべきでないかも)。

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なお目白通りからではなく、写真のように下の神田川沿いが公園となっておりこちらから入いるのも風情がある。

 

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ウェデイングドレスのすそ広がりは十二ひとえ同様に美しいと思う。 

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そうだ東京へ行こう④ 鳩山邸

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飛鳥、奈良、京都、鎌倉と違って東京は現役の政治の都。ならば現役の政治家のお宅を拝見するのも意味があるのではと、2箇所加えた。その1番目。

言うまでもなく、鳩山家は和夫・一郎・威一郎そして由紀夫・邦夫兄弟と4代続いて政治家をしている。

1995年大修復し、鳩山会館として公開している(一般500円)。
音羽通り、音羽一丁目バス停のそばに堂々たる門がある。坂道を上がっていくと丘の上は一族の住居群が。指揮者故渡辺氏もここに住んでいたはずだ。

全体の雰囲気は岩崎邸と似ているところも。

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何十年かすると由紀夫・邦夫兄弟記念の部屋もできるのであろうか。

 

 

   追記 2021年3月

 ある審議会で大蔵事務次官であった威一郎氏を見ている。数年前は突如邦夫氏が逝  去。

まさかこんなに早く、とは思わなかった。