古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国 ⑨ 千葉寺と千葉寺廃寺 その2

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この本、単なる観音巡礼の案内本かと思ったら、そうではなかった。

他の公的解説本には載っていないことが記されている。調査能力、努力に敬服すべきものを感じる。

             

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千葉寺の盛衰につても以下のように記述されている。

 ・縁起とは天和の頃編纂の「千葉寺縁起」。それによると

 ・創建後450年、二条天皇の永歴元年(1160年)雷火ため焼失し、現地に移転。

 

(現在、寺の東方1キロのところには「三界六道観世音旧跡」と記した石碑がある。) 

 

・千葉氏第二十代は1568年海上郡を永代寄進し武運長久を祈願したという。

・寺領も千葉村一円を統括したが、その後織田信長によって1/10に減らされた。

・1590年、家康は御朱印地100石を寄進し,18坊を有するなど繁栄を極めた。

・1689年、火災で一山烏有に帰した。

・1806年には門前百姓佐七方より出火し、本堂をはじめ諸堂宇を焼失。そして本尊も遂に火災にあい、現在の本尊は1808年造顕現、1828年本堂を再建復興したもののこの後も1852年出火し、庫裡、客殿など悉く灰燼に帰す。

明治維新当時は寺領も没収され、住僧もなく、船橋本覚の兼務になったが、村内の有志によって土地の払い下げを請願し、土地を得て復興した。

・しかし、また戦災にあった。

 

 

なんだが惨憺たる被災の連続という感じがする。奈良朝の廃寺のほかさらに近世にあっても廃寺があったかのような気がする。

火災の連発というのは比叡山でも高野山でもあったようで木造建築の宿命の感じがする。

現本堂が鉄筋コンクリートになっているのもやむを得ないのではと思う。

 

なお、著者は1キロ先から引っ越してきたとの謂れについて多数説同様埋蔵物の瓦のことからも疑問を呈している模様。これについては観音塚のところで述べたい。

 

ここで注目したい点があるので触れたい。二次大戦の空襲で焼失する前の地図によると道を隔てて二つのお寺の印と寺名が載っている点だ。

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警察関係の地図で信頼性は高い。

 

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大網街道に面して左側に千葉寺観音堂(現在の千葉寺)、右側に千葉寺とある。いくら間に公道があっても同じ宗教法人?なら一つとして扱うのではないか。

その地図右側の現況は民家となっている。さらその先は公的施設のハーモニープラザが

建設されている。

半減しているような印象を受けるがどういう理由なのだろうか。

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1160年、1キロ先から移ったのではなくより近い隣地から移っということはないのだろうか。

なお、寺の東方1キロのところには「三界六道観世音旧跡」と記した石碑がある。とあるがその痕跡は全くうかがえない。どこかで保存しているのだろうか。石碑の写真を見たいものである。

とにかく「観音塚」なるものがキーになるようだ。

 

古代東海道 下総国 ⑨ 千葉寺と千葉寺廃寺 その1

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 国分寺より前に豪族に建立されたお寺があります。下総では現市川市真間町にある弘法寺(葛飾郡)と現千葉市千葉寺町(千葉郡)にある千葉寺(上の写真)です。

 しかし、ちょっと本を読んでいると千葉寺廃寺という文字も出てくるのです。

全国にある国分寺は大体当時の旧国分寺跡あるいはその付近に建っていますが国分寺廃寺という文言は使っていないようです。

市原市光善寺もそうですがなんで光善寺廃寺とか千葉寺廃寺というのでしょうか。

千葉寺に行ってみました。

まずはこの説明版。一般的なものでしょう。

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しかし入ってすぐのところに次の説明があり、驚愕です。

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東方約1キロの観音塚に建立されたものが1160年,雷火による火災で当地に移転したとあるのです、

 ならば709年から1160年の400年にわたって位置していた旧所こそが本来の千葉寺であり、それを千葉寺廃寺というべきことになります。

しかし、奇妙なことに現千葉寺を掘削調査したところ奈良、平安時代の遺物が出たというのです。

とすると A 1キロ離れたところにあったお寺

     B 現境内付近から発掘されて判明した古い奈良期の旧寺

     C 現千葉寺 

の3寺があることになってしまいます。AとBは年代的に重複しておかしいことになります。

篠崎四郎氏は著書(「房総の史跡散歩」昭和62年国書刊行会 72ページ)で次のように書かれています。

以下引用

 この地に上代寺院があったことは昭和の初め境内から奈良朝の布目瓦数かけらを拾得したことからもわかっていましたが、その後に國學院大學大場博士や近接の千葉一高武田教諭などの発掘調査により明確になりました。

 その鎧瓦と、のき瓦のあるものは筆者が昭和7年ころ市原市武士台で採集した遺瓦と同一紋様で、何らかの両地相関を思わせます。この二つの寺はおそらく大豪族の私寺(氏寺)のようなものでありましょう。

そして、大胆に結論付けている。

この奈良朝寺院が千葉寺と連結するものでなく、廃寺跡に後世密刹が造営されたとみるべきでありましょう。

篠崎氏の次の記述は考古学的理解とともに深い歴史学理解が必要なことも教えてくれます。

鎌倉時代から千葉氏の信仰するところによって盛大となりました。坂東33か所観音霊場に加えられるに至ったのも、鎌倉との親縁に由来するものでしょう。坂東札所の創設が西国33か所観音霊場にならって鎌倉時代におこったことはその配列順序を見れば一目瞭然です。すなわち第1番を鎌倉東部の古刹逗子杉本観音から始め、関八州名刹を一巡して最後を房州那古観音で札納めとし、船で三浦半島にわたって鎌倉へ帰着という仕組みになっています。

 

    (略)

本堂は米軍の空襲で焼失、その時に本尊の観音巨象も滅して今はなく、本堂前の大イチョウだけが来し方の歴史を物語っています。

古代東海道 下総国⑧ 千葉寺、亥鼻方面への道選択 v2

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 市原市からずっと海沿いのルートを考えている人は上の地図でも☆1の房総往還を選ぶことになるでしょう。

 私は内陸寄りの☆3か4か5を選びます。と言っても☆1からの距離はわずかで歩いて10分程度。

☆1は357号湾岸道路沿いの海近くです。近すぎです。千年前果たしてどうだったかわかりません。(手前左右の道路と直交する写真中央の道。バス停だと稲荷町中央)

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ここら辺は海抜が低く3m以下。2019年関東をおそった台風もしくは豪雨で道路アンダーパスは冠水し交通がとまた箇所が散見されます。

 房総往還はこの先、都川にぶつかり、大きく右に曲がることになります。橋を架けることなどままならなかった昔、海に近い河口付近はリスクが大きかったと思います。

古代道で必要とされる直進性は☆3,4,5が圧倒的に優れています。

この先池田郷を考える上で必須の千葉郡の中心亥鼻の台地にもそのままつながる点で、また、709年創建の千葉寺に近い点でも☆3,4,5を採りたいと考えます。

 このうち高度は3,4,5の順でたかくなり、3は末広街道と変わりのない低高度です。

☆4は道祖伸があったりして風情がありますが道が狭すぎ租税を運ぶ官道にはなりえません。

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 というわけで☆5を進むことにします。もっともこの千葉寺三叉路でつながりますが。

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では、最近撮った写真で歩いてみましょう(2021,6,25)。

 

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右側の道を選択

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千葉寺町公園。だんだん高くなっています。

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千葉寺三叉路が見えてきました。大網街道にぶつかります。

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民家の後そして右手の木々は千葉寺です。この奥の方角数百m先に千葉寺とセットで考えるべき重要な荒久古墳があります。

大網街道を左折するとすぐに中村古挟記念病院があります。

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余談ですが創立者夏目漱石門下生で東大を出た後医大に入り主に精神科の治療に定評のあった病院です。

あの中原中也も神経を患い入院したことで有名です。中也は海を見ながら療養に過ごしたわけで、海を見通せる高台が人の心を和ませたことに千年の差はないのでしょう。

次回はいろいろとある千葉寺について。

 

更級日記‣上洛の記千年(武蔵野書院)

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ちょっと前にこの本の出版を知り、気になっていた。

更級日記というと、上総国府はどこにあったか,「いまたち」とは?と謎解き面ばかり

が強調されているきらいがある。

本質・本籍は文学であろうに。

 

定価税抜き11000円とお高く、なかなか手が出なかったが図書館開架コーナーにひっそり並んでいたのでびっくり。

 

なかなかいい。本質は文学であることを忘れないでいる。

 

二人の編者 和田律子教授と福家俊幸教授の采配、そして武蔵野書院創業100周年記念に選んだ会社の高配は高く評価されるべきと思う。

 

 書店院主の「土地には目に見えない何かが潜み、その重みと深淵を理解できるのは、その土地に対する深い愛着と身についた勘をもった土地の人々なのではないか」との発言

 福家教授の「本書の最大の特質は、歴史学と文学と融合にある」とのあとがきに深く感じるものがある。

 

一般的な古典ファンには手が届きにくいだろうが、内容からいって全国の図書館と文学部図書館(室)には標準的な蔵書になる気がする。

そう考えると経営的にも価格設定は的外れでないかもしれない。

 

東京芸大助教授であった太田聴雨のカバー絵もイメージぴったりで秀逸。さすがに市原市のキャラクターも太刀打ちできない。

 

増刷の時は表紙絵を拡大するようお勧めする。

古代東海道 下総国⑦ 南生実橋から千葉寺駅前リブレ京成まで V2

前回の南生実橋交差点風景の写真には廣照寺が見えている。

この先、右側にある八剣神社、埋蔵文化財調査センター、大覚寺山古墳についてはすでに述べているので省略。

道の雰囲気をお伝えする写真は次のとおり。基本的に台地の周縁に沿って進んでいる。

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生実町5差路を過ぎ、左に見えてくるのが本満寺

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雰囲気はよかったが人気がなく、鐘楼も建屋しかないのが寂しい。

 

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 このお寺のすぐ先に見えている3階建てコンクリート?が大覚寺

謂れを記す案内板は傷んで判読不明。

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大覚寺の先すぐに生実池交差点があり、生実池が見えてくる。

大百池同様、かなり大きな池だ。

 

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生実橋を通過すると右手の台地が見え、迫ってくる。

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直感的に怪しさ、気配を感じる。

少し先に行くと県立学校2校の入り口があった。

この時はそれで終わったが、後日この箇所について重大なことを知る。これにつては千葉寺のところで述べたい。

 

高速館山道(またしても!!)の下をくぐり、JR外房線の踏切を渡る。

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このあたり、右側は鵜の森、左側は蘇我町!となる。


そして道路を進むだけではわからず、迷うことになる箇所にぶつかる.

それはここ

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変形Tの字交差点で、左の南税務署方向へ行けば海側。傾斜もかなりあり、

かってはすぐ海だったと思われる。

右に曲がるとそのまま直進してしまうが、それでは内陸部中央に進んでしまう。

地図をよく見ればわかるがかっては☆1から☆2への直線道路であったものが後により広い末広街道が開発されたことにより、それに合わせて分断されたものと推察する。

 こういう道路付の場合、分断された細いほうが旧来の道と考えられ、逆にそのことの立証にもなると思っている。

したがって、右折してすぐ、鵜の森交差点を左折することになる。

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この先も、うっかりしていると間違う。私も二度くらい間違った。

二股に分かれるところで末広街道から蘇我中の下の道に入る。

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そうすれば風情のある由緒正しい怪しいルートになる。

なお、ここは一方交通なので車で来る人は逆方向から。

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 この斜面の緑地帯はかなり続く。海を見下ろす上の部分はどうなっているのか気になり、上がってみると団地街だった。

建設は相当前のようだが当時の埋蔵物関係の記録はないのだろうか 。 

 

 進むとだんだん市街地になっていくが先が見えないくらい遠くまで見事な一直線。

珍しい。

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途中の菰池公園にはSLが展示されている。

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京成千原線千葉寺駅前までやってきた。

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この鉄道の敷設は新しく、建設に伴って駅や線路付近におびただしいほどの遺跡が

発見・発掘されている。

開発に伴い、歴史的遺跡の破壊と発見双方が生じている。

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古代東海道 下総国⑥ 低湿地遺跡「千葉市・神門(ごうど)遺跡」のこと  v2

 大覚寺山古墳を見学して遺跡通りに戻ってさあ、千葉寺へ向かって進もうという段階で意外な展開が。 

下総国①でこう述べた。遺跡にあたるものなどないはずと決めてかかっていたのである。

ただし村田川と浜野川にはさまれたBとC点の間、特に茂原街道(バイパス)北側は2021年現在でも低湿地というか荒れ地状態のところが多く、この箇所の確固たる旧道は認識できない。

( 更級日記に低湿地帯武蔵国の藪漕ぎ描写があるがここ千葉の風景を拡大したような状態であったのかもしれない。)

 廣照寺の手前の南生実橋付近で遺跡が発見されその報告書が1991年に発表されていたのである。

かなりぶ厚い報告書であり、序を読むだけでも意気込みが感じられる。また自然科学的な分析を全国の公的機関や大学に依頼していて珍しくも感じた。「低湿地遺跡」という響きは軽くない。

 

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千葉市では旧跡時代から歴史時代に至る数多くの遺跡が残されているが、(略) これらの多くは洪積台地と呼ばれる台地上や台地縁辺に所在しているもの。今回報告する「千葉市・神門(ごうど)遺跡」は低湿地に所在する」「土器石器等の遺物のほか獣骨・貝類等の自然遺物、それに低湿地遺跡特有の有機性遺物が数多く得られ、失われた過去の生活をより具体的に知る大きな手掛かりをあたえてくれるものものだった。」

 

 

 

 

 

報告書中の写真及び地図による現地場所

 

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地図だと

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当方の用意した地図だと

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改めて現地に行って撮影

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遺跡、調査した痕跡は全くうかがえない。

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現地図書館などに紙資料としてかろうじて残るだけではせっかくの調査が生かされない。須和田遺跡(市川市)のように記念銘板的なものを設置してほしい。橋が架かっているのだからそのスペースはあるだろうに。

 

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以下の地図で古代の官道はここ(赤〇)と思っている者にとって心強い。

なお☆2は八剣神社(☆3)に直行する神門橋。

セブンイレブンがあり駐車場も広いので車で安心して見に行ける。

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コンビニ駐車場から見ると進行右側に台地のヘリが見えている。

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歴史学者 吉村武彦さんの提唱

2021.6.4付読売の記事が興味深かった。

吉村武彦さん(1945年生まれ)はじめは東大でフランス近代史を志したが、日本史に転

じ、興味を持ったのが明治維新

が、近代を知るためには近世、近世を知るためには中世を知らなければと遡るうちに古

代史が専門分野になったとのこと。(マルクス主義歴史学に束縛されたくないとの考えもあったようであるが。)

そして一次資料が少ない古代社会の解明のため、歴史学のほか考古学や文学研究の成果をも取り込む「古代学」を提唱しているとのこと。

 

 更級日記研究をしている人の場合は文学から出発して、歴史学、地理学、考古学へと進む人が多いようだ。

 

関東の道路史(建設省関東地方建設局)

題名から受けるイメージをはるかに超える内容を持つ。

絶賛に値する。

 私は政令指定都市に居住する。その市立中央図書館の方が県立よりはるかに近代的で優れているのでもっぱら利用しているが、ある日気まぐれに10年ぶりに県立中央図書館に行き、開架式棚を見ていて目に入った。

 市立中央図書館では見かけなかった。この種の本は多分寄贈配布だと思うが県には贈っても市町村図書館は数が多すぎて贈っていないのかも。

東京でも都立中央図書館には蔵書にあった。が、閉架式図書であり、この本の存在を知らない者には機能しない。都立中央図書館は開架式の数が少なすぎると思う。

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何が優れているかは本の目次=構成でわかる。

1古代の道 2中世の道 3江戸時代の道 4明治から戦前の道路 5現代の道とあるが、

1,2,3それぞれについて

年表、社会と道の移り変わり、関東の道の姿、関東の道と文学 世界の道の項目がある。

広範かつ体系的網羅的。歴博レベルを超える。

あまりのすばらしさにコピーでは足らず本自体の購入をと考えたがもちろん市販されていない。

メリカルに唯一1冊あったので確保できた。

 

この本は40周年記念だそうで(平成10年発行)、だとすると50周年記念の発行も待ち遠しいが、コロナの影響で遅れているのかも。

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とにかく交通論を説き、学ぶ方々にとっても視野が狭くならないよう、悪く言って専門馬鹿にならないようこの本の閲読をお勧めしたい。

なにしろ、サイクリングロードや平成7年開業の新交通システムゆりかもめ」のことまで載っている。

 

 

 

後者には悲しい思い出もある。

人事担当者として電話で話したこともある若い技術者が「ゆりかもめ」に出向したが、ある日初の人身事故で轢死したとのニュースが入った。

実習なのか複数で軌道上を歩いていたらしいがゆりかもめは運転者のいない無人運転

(指令室で各車両の状態を遠隔監視しているが)

 

今話題の自動運転の先駆けだ。そのリスクを考えてしまう。

 

 

古代東海道 下総国⑤ 埋蔵文化財調査センター、大覚寺山古墳

 


八剣神社を出て、バス通り(千葉中央遺跡通り)に戻って北上。

埋蔵文化財調査センター入り口という大き目な看板があるのでそこで右折。

なだらかな傾斜を進むとすぐに右手の高台に建物が見える。

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資料も展示も豊富で勉強になる。生徒・学生の見学も多そうだ。

駐車場もあるので車で行ける。

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たくさんある掲示の中で一つをあげるとこれ

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千葉市だけで遺跡が1336か所!

旧石器時代の113から始まってこんなにたくさん。

東京湾内地域は遺跡だらけの様子。どうも畿内を特別視しすぎていたのではないか。

係りのおじさんに大覚寺山古墳を訪ねると玄関先に出て「あっちの方角で、すぐですよ」と教えてくれた。

普通の住宅街の中を進むとすぐにこんもりしたお山、そして立て看板。

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別の文書の説明は以下のとおりで立て看板と2か所違っている。
 なお、文中にある七廻塚古墳は今や公立学校の敷地になっている。なんとか保存できなかったものか。下総の国府内(市川市国府台)にある古墳は日本陸軍の基地内であったにもかかわらずに削られず、現在も国立東京医科歯科大キャンパス内にそのまま残っているというのに。

 

生実丘陵から南に派生する小支丘端部に位置し、主軸の方向を稜線に合わせ、前方部が北を向いた主軸長約66m千葉市内では最大規模の古墳です。墳丘の形態は、前方後円墳前方後方墳の両説があります。発掘調査が行われていないため定かでありませんが、墳丘形態、立地等に古式古墳の様相をよく残しており、築造年代は5世紀前半と推定されます。この時期は、南関東に古墳が出現する時期で、東国の古代社会を研究するうえで重要な古墳です。

昭和45年、宅地造成の際に発見され、史跡公園として公有化されています。

後円部に接して径10mの小円墳が所在しますが、陪塚の可能性があります。周辺の台地上にも小円墳が点在し、北東には発掘調査で石製品等豊富な副葬品を出土した七廻塚古墳が所在しました。

 

 ただし大覚寺山古墳は明るく芝山状態で直接登れるなど魅力に富んでいる。古墳とわからなかった時代も現在も子供がそこで遊んでいる。奈良の若草山にも似た雰囲気だ。

未だ掘られていないことも含めて一種の望ましい姿かもしれない。

 

入り口はわかりにくい。

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古代東海道 下総国④八剣神社

たまたま市販の一般的な地図を見ていたら小さく八剣神社というのを見つけた。

なぜか、気になって仕方がないがどうやって行くのかはっきりしない。

千葉中央遺跡通り(仮称)に入ってすぐ「廣照寺入り口」という看板があったのでそこから入ってみた。

 

    

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しかし狭く直角のコーナーばかりでわからない。

家庭菜園をしていたおじさんに聞いたら後ろを指してあそこだよと教えてくれた。

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背後から侵入するって四国88か所最終の寺に山から下りて入る時がそうで、芳しいことではないが。

 

しかし、しかしだ。思わず唸ってしまう。

ここは本物だ。

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境内、それより参道に残存する大木が証明する。

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千葉寺、市川の八幡神社、福岡の太宰府天満宮にある巨木に引けを取らない。

境内には私以外、たった一人。その男性はここにたどり着くのに10年かかったと話した。

境内から外を眺め、鳥居の向こうに参道が続いているのを知った。

前回の地図をよく見るとわかるが川から神社鳥居までほぼまっすぐな道が続いている。そこが正規、本来の進入路だった。

 

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別の日、もう一度正規の参内を。

目に入る光景がまるで違う。やっぱり、裏口入社はよくない。

 

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上のお宅は神社と無関係だと思うがあまりに雰囲気が良いので。奈良あたりでありそうな光景。

 

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案内板を見ても古いことは書いてない。

ネットで拝見した「猫の足跡」さんの記事がとても参考になるので引用させていただく。

  猫の足跡  https://tesshow.jp/chiba/

 この方の知識探究心は半端なく、素人には思えない

 (以下引用)

劔神社の由緒

劔神社は、日本武尊東征の際、当地の争乱を平定して総の国を上総・下総に分割、国境を定めたことに感謝して創祀したといいます。もと小弓(生実)の総鎮守だったといい、村が南北に分割してからは南生実村の鎮守となり、明治年間に村社に列格したといいます。

 

「千葉県神社名鑑」による八劔神社の由緒

日本武尊が御東征の折、相模国三浦よりこの地に御渡海なされ、争乱を平定し、東国を二カ国に分割して南を上総、北を下総とし永く国境とせよと命じられた。人々は御徳恩に浴し深く敬ってこの神を国家守護神と仰ぎ、東国鎮護征夷神八劔神社とし、天神社を併せ祀って崇敬した。大正二年四月神饌幣帛料供進社に指定される。元小弓村の総鎮守だったが、南北に分村するにあたり南生実の鎮守となった。 (「千葉県神社名鑑」より)

「稿本千葉県誌」による八劔神社の由緒

同郡(千葉郡)生實濱野村大字南生實字本郷に在り、境内五百八十五坪、日本武尊・天照皇太神・大巳貴命を合祀す、創建年月詳ならず。もと生實町の総鎮守なりしが、南北分村の後、單に舊南生實村の氏神となれり。大正二年四月幣饌料供進指定。(「稿本千葉県誌」より)

 

この神社は由緒も含めて非常に有意義な存在に思える。たどり着けて良かった。