古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

港区 仮仙洞御所と幼稚園どんぐり採取

武蔵の国㉒で古代東海道のルートと考える二本榎通りについて述べたばかりであるが、近世以降も色々歴史が濃いようだ。

 

この、お屋敷、もとは細川藩の屋敷であったようであるが2年間、上皇の住まいである仙洞御所(仮)であったとは知らなかった。二日前、葉山御用邸に移り、そのあとは新規の仙洞御所へ移るとのこと(ニュース)。

 

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近所の幼稚園がドングリを拾わせてもらい、園児が見送りをする映像が映っていた。

 

また、前述の都営アパートが大石義男自刃の場所で記念碑が建っているとは知らなかった。

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平安時代、中級貴族の菅原孝標一行が地方任官を終えて帰京する同じ道を当時のトップの末裔が今の時代に通ったと考えると感慨深い。

 

追記 2022.4.27読売新聞

 



 

 江戸城至近の大名上屋敷とブラタモリ雑感

一昨日土曜日のブラタモリ、ちょうど当ブログで最近扱った内容にダブるところがあるので興味深く拝見した。

 

番組で時間をかけ、特に強調していたのが井伊氏の優遇とその上屋敷位置の優越性だった。

上屋敷の場所は海抜の高い、桜田門を見渡せる絶好の位置。

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現況はこうだ。

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その場所の優越性から維新後も参謀本部の場所となったことに言及していた。

その当時と現況の比較はこうなる。

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例によって登場する識者はこの桜田門から虎ノ門への道は古い東海道ですと説明。

タモリは思った以上に高度ある地形であること、ここはあまり人が来ないところだねと印象を語る。

確かにそのとおり。私も職場が目の前だったので昼休みに何度か来たがいつも人はいないか少数だった。

 しかし、議事堂前の公園というほか、それ以上に水準点原点地であること、憲政記念館があって入館できるなど行く価値はあると思う。

今回のTV報道で増えるかもしれない。

 

なお、ブラタモリでお相手をする女子アナはその後頂点を目指すエリートコースになっていることは知られている。

今度の方、人柄、会話のもって行き方の点では悪くはないが、地理歴史番組として必要とされる最低限の基礎教養が不足するように見える。容貌だけで女子アナになれる局ではないと思うが。

かってのTBS雨宮塔子のようにボケ路線で進ませる方針なのだろうか

 

古代東海道/更級日記の道 武蔵国㉒ 高輪皇族邸、東海大、高野山東京別院、味の素前、高輪台交差点

伊皿子交差点を過ぎ、すぐ100mくらいでこんもりした森。よく見ると門前に機動隊の車両1台と立っている警察官。

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高輪皇族邸だ。立哨警備とは現に皇族が居住中?

その50mくらい先に茶色系の外壁(冴えない)の高層マンションが建っているが、なんと都営アパートだそうだ。

こんな超一等地に都営アパートはないだろう。京都御所の隣に京都府営アパートをたてるようなもの。

会計検査院的発想で考えれば民間に高値で土地売却し、そのお金で湾岸埋め立て地にキャパ数倍の都営アパートを作るのが筋ではないか。

ここでも尾根道らしく、脇は下り坂で海へ連なる。

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二本榎通り(海側)には高輪中・高校と東海大付属高輪台中・高校が並んでいて分かりづらい。

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高輪中・高校とは港区立?

沿革によると元は京都西本願寺の私立学校。今は仏教色を排しているらしいが。

大正6年の台風で高台の校舎が倒壊したとある。大正6年と聞いて、もしやと思うところがあり調べるとやはり関東大震災の6年前に東京湾をおそった大災害のようだ。

ここは高台だから高潮にのまれることはなかったがすぐ下は海。海沿いは甚大な被害を受けたのであろう。

以下ウイキペディア引用

東京湾接近時には、折しも満潮の時刻と重なり、東京の京橋区深川区本所区などの東京湾沿岸域や隅田川沿いの区部は著しい被害をこうむった。前後2回にわたって高潮が押し寄せ、佃島、月島、築地、品川、深川地区などが浸水。月島、築地、洲崎方面の増水が激しく、多くの人が溺死した。東京府の死者・行方不明者数は日本全体の半数近くの563人に上った。

 

千葉県の東京湾岸一帯にも被害を及ぼした。浦安町は全町が水没した。江戸時代を通じ、幾多の水害をくぐり抜けてきた行徳塩田は堤防が完全に破壊され、これをきっかけに東京湾で行われてきた塩田による製塩業の数百年の歴史は事実上幕を閉じた。

 

こちらは大学

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これら3学校の裏?海側に赤穂浪士泉岳寺がある。

 

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承教寺

この門からかなり奥まったところにある境内に英一蝶の碑がある。

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しかし宗教の場としてのアウラは感じられなかった。

 

さらに進んで高輪署前交差点(高輪3丁目)

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警察署の先にお寺の山門が見えている。

高野山東京別院

 

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中はかなり広く、建物、石碑などもピカピカ。財政豊かそう。後藤田元官房長官の碑もあった。

本堂前から見る入り口の山門

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何やらかっこいい門が。

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大名屋敷の跡か、そうでないかはわからないが、味の素の保有する施設の一部のようだ。

先隣りは、かっては国会議員の議員宿舎だったが、現在解体中。

なんで都の工事になっているのだろう。土地を取得したのか、週休二日制確保試行工事とある。

 

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二度とみられない更地状態。

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このあたりで右折すべきだった信号に名称がないこともあり、行き過ぎてしまった。

今回最初の迷い道か。ただし意義ある行き過ぎだった。

プリンスホテルの広大なゾーンに進んでいた。

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進めば品川駅前(15号。第一京浜)に出る柘榴坂

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それにしても高輪、品川あたりのプリンスホテルの体系がわかりにくい。

こんなに良質不動産を持っているのになんで西武がダメになったのか思い出せない。

 

戻って味の素あたりから国道1号桜田通りに向かうことに。

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出た。高輪台交差点だ。

正面に交番が見える。その後ろは頌栄女子学院高・中となる。

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手持ちの文化8年の1枚物の図からたどってみる。

先ずは江戸城から

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増上寺,三田町、聖坂 すでに旧東海道はできている

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古代東海道・更級日記の道 武蔵国㉑ 三田3丁目交差点から聖坂、済海寺・亀塚へ v2

 通説?への疑問と中原街道ルートについて

 

「古代の道」(武部)は多摩川から桜田門までのコースを次のようにとらえている。

 (同著78頁)

 これに(中原街道)にしたがってそのまま多摩川を渡り、

 中原街道の中延付近で東に折れ

 JR京浜東北線大井町駅前が大井駅(品川区大井)比定地である。

 前の小高駅から12.5キロである。

 大井駅で90度左折し、直進する。

 現在のJR品川駅付近からは近世東海道、現在の国道15号に沿って北上し、

 JR田町駅付近からほぼ国道1号(桜田通り)の筋で皇居前を通り

 名前が変わって本郷通りを直進し、直進路がなくなってもそのまま上野公園の西端を

 通っていけば谷中霊園に達する。

 

上の一節にはわからず疑問に思える点が少なくない。

 

・ 中延付近で東に折れる理由がわからないし、中延という地域は相当に広いので具体

的にどこかもう少し詳しく書いてほしい。

・ 大井駅で90度左折し、直進する、とあるが、東に折れ進んだ後90度左折して直進するということは目標までの2点間で三角形を作ってわざわざ最長の距離を歩くように設定するようなもの

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合理的に説明しようとするならとにかく大井駅家に泊まることが前提、大井駅家の先が海なので左折して旧来の道をたどることになるから、ということになろうか。

更級日記を読んで気が付くのが駅屋制度上の家に泊まった形跡がなくほとんどが仮設小屋に泊まっているように思える点だ。

今でも千年前でも歩いて旅する人の切実な願いは、安全+距離の最短化だと思う。

大井駅屋に泊まることを前提にしなければ、いずれ先のJR田町駅近辺(三田3丁目)で古代東海道に合流するのであり、だとすればそこまで直線ルートすなわち中原街道を途中下車しないで進めばよいことになる。

 

以上の立場から私は本郷通りの時と同じように三田三丁目から尾根道を通ることにして聖坂二本榎通り高輪台桜田通り(国道1号線)→五反田→中原口から都道2号(中原街道)→多摩川丸子橋と、全体として中原街道ルートを進むことにした。

 

聖坂に入り三田台へ

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クエート大使館の隣の区立学校。21m超えの高台

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道幅の広くない尾根道であることは両側の急傾斜でわかる。

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三田台ピークが近い。

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更級日記に出てくる竹芝のお寺とされる済海寺f:id:hen-un:20220401154330j:plain

それよりフランス国とのかかわりは史実。敷地は狭く現工事中。

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交番に続く立派な塀

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と思ったら亀塚公園で、こちらに亀塚があった。

このあたりの説明

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(少し先にも三田台公園があり、そこでは遺跡についての展示もある。ここら辺は縄文時代からの安定した地盤です。資金に余裕のある方はお求めください。)

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亀塚公園

 

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三田台公園 (公園内展示・掲示一部)

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 大昔のこのあたりは

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三田台から高輪台へ続く高台は都内でも超一等地。高級マンション街へ変わりつつある。

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少し下って伊皿子(いさらご)交差点。次は二本榎通で高輪台へ進む。

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続く

古代東海道更級日記の道 武蔵国⑳ 桜田門、霞が関、虎ノ門、芝公園(芝丸山古墳)、赤羽橋、慶大前、三田3丁目へ

3月28日月曜日。JR有楽町で地下鉄に乗り換え桜田門駅

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駅がこんなに近いとは思わなかった。

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どこか違う。

そうだ、地下鉄出入口に屋根がない。景観第一の特異地点だからだろう。

それより海抜6.8mの表示がうれしい。この高さは微高地というのだろうか。

これより南下したら1000年前は海になってしまう。

直ぐに西進するのも何なので前回通っているけどもう一度桜田門内へ行くことにした。

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夕暮れより朝がいい。

と、門内に入った次の瞬間、感激することに。

 

 

 

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こんなに見事な桜を見たことがない。

とくに幹がすばらしい。

 

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行ってよかった寄り道だ。今日は東京の桜満開日だった。

 

ではいよいよ今日のスケジュールにのっとって国道1号線桜田通りを出発。

 

 

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これまで警視庁玄関口まで行ったことはなかった。

脇を通るので入り口の写真を撮ろうと思ったら、「型ぐるしいことを言うが写真はお断りです。道路前にある表示はどうぞ」とのこと。

かなり厳格。二日後すぐ先の外務省に車で突入した事件もあったし、文句は言えない。

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このあたりの地図は以下のとおり

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警視庁の建物に比べて古臭くて劣後していた警察庁等旧内務省の建物が見事に建て直され荘厳なものになっていた(合同庁舎2号館)。石張り調の外壁は好きだ。

 

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この先を右折して本日2回目の寄り道。

私の最初の勤務先があったので。

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記憶は薄れ、登り坂だったことは覚えていない。

その先は国会議事堂で7階の部屋から正面に見えた。下は桜田門からの写真。

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戻って1号線を進む。と言っても隣の外務省。

塀越しに見える銅像。これも見た記憶がない。忘れたのだろう。

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当時は広い庭、道路前のみどりスペース、建物の和を感じさせるデザインが秀逸だったがさすがにくたびれ感も出てきている。

 

最近、なにかと評判の悪い財務省

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意地でも建て直さないのか。古いまま。

大蔵省主計官室に資料や差し入れを持って行ったことが思い出される。彼らには連日の残業の疲れが漂っていた。

 

 

 

虎ノ門霞が関から外れていることもあり、低く軽んじられていた役所。昔も今も。

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しかし日ごろ勇ましいことを行っている教授も大学も面と向かうと平身低頭の体。

私もこの省の体質は不快に思う。

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虎ノ門では民間ビルの超高層街化も著しい。

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虎ノ門3丁目で横浜まで31キロか。

ウクライナの首都○○キロまでロシア軍が迫っているとの記事を見るにつけ、その距離というものについて考えさせられる。

 

さて桜田通りは虎ノ門の先、進行左側は愛宕山(25.7m)、東京タワーのある芝公園3丁目、増上寺のある芝公園4丁目と続く。

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芝公園には古墳があるので赤羽橋交差点で左折して寄り道していくことにした。

 

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交差点で後ろを振り返るとこう

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芝公園は思ったよりっ広い。

南側に古墳がある。

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頂部は上野公園内の古墳に近い状態だ。

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そばには貝塚も発見されている。

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下は赤羽橋交差点に戻る途中。古墳のある起伏高さが今でも実感できる。

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赤羽橋交差点をクロスし、済生会中央病院を右に見ながら進むとすぐに慶大が見えてくる。

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昔、何かの試験会場で入ったことがある。

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さて三田3丁目交差点でどう行くべきか考えが分かれてくる。

Aコース

 そのまままっすぐ、地方道301号→国道15号(第二京浜)と進む。

bコース

 斜め右に曲がり、さらに二股に分かれる道のうち左側(聖坂)に進む。

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(続く)

古代東海道 武蔵国⑲ 順天堂大→明治大→駿河台下→一ツ橋二丁目(一橋大)→二重橋・桜田門 

 首府の防御防備(ウクライナ江戸城

 

本郷通りを本郷3丁目、壱岐坂上、その先の二股を右折して外堀通り(順天堂前)までやってきた。

 

芳賀氏は言っている。

江戸以前に現在の外堀はなく、本郷台地は神田山の山すそ(現在の神田小川町付近)まで一続きだった。その屋根筋の本郷通りをたどり、急斜面を一気に駆け下りれば往古の城下。江戸城を攻撃するには最もふさわしい経路となる。

ウクライナでロシアの侵攻を防ぐために橋を落としたなどのニュースを目にすると数百年前のこの城の防御策がリアルなものに感じられる。

 

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堀がなかったら現在の三楽病院(東京都関連の病院)あたりに出ることになろう。

「神田山」とはわかりやすい。「駿河台」より当時の地形を反映した名称に思う。

山裾の地形が現在でも残っているとは知らなかった。確かに靖国通りは南に弧を描いている。(大きな左矢印は後述)

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お茶の水は私にとって通学・通勤途中の駅であり、ここを通った回数は何万回かわからない。

しかし別の視点で道路を見ると全く異なって見えてくるから不思議だ。

 

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お茶の水橋を渡り、見えてくる下倉楽器、メンタムのお店は通りの主のよう。主婦の友社はもうない。

先に見える駿河台下はずいぶん下がっている。

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明治大学のこの建物、いいデザインだと思う。向こうに道があって緑があるのは知らなかった。

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博物館が無料とのことで行ってみたが休みで残念。最近、考古学における明大勢の伸張著しい。東大は日本の近代的考古学創世時の元気がないかに見える。

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脇の路地に入って、漱石の母校錦華小学校跡を見に行こうとしたが、お茶の水小学校に変わっていてしかも工事中。引き返す。

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駿河台下交差点で靖国通りにクロスする。

靖国通りはかっての神田山山裾、崖のふちを走る道。

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右に曲がれば書泉、三省堂古書店街。左折すればスポーツ用品店が多い小川町。その先は蔵前通りになって千葉へ向かう。

 

さて、ここで芳賀氏の書で得られた知見を紹介すると

本郷通りはかって神田山南の急傾斜のガケふちで南西に向きを変え、現在の「一ツ 橋」に向かっていたと考える。「一ツ橋」は本郷台地と麹町台地の谷間、旧平川河口近くの低地で、発掘調査の結果、古墳時代から集落が存在ていたことが明らかになっている。(東京都千代田区一ツ橋2丁目遺跡 1998年)

 検出された中世の道路遺構は北東すなわち本郷台地を目指していた。つまりこの遺跡は中世江戸城下のムラの一部で麹町台地と本郷台地ををつなぐミチの結節点に存在していた。

 この考えによるルートが上から2番目の地図に書き入れた大きな矢印です。

一ツ橋2丁目の3D地図は以下のとおり。この地名に依ったと思われる一橋大キャンパス、如水会館等もあり、同大出身者にとって故郷の地であろう。

なお、東京都千代田区一ツ橋2丁目遺跡はネット検索でもかなり出てくるので参照してみてください。

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私は南西に曲がらず、一つ東の道で皇居を目指しました。

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錦町河岸(にしきちょうがし)交差点とその下の錦橋

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気象庁のところへ出ます。

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ワクチン接種会場がありました。

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航空写真で見ると。

☆が千代田区一ツ橋2丁目遺跡箇所。そのまま斜め左下に進めば高台の国立近代美術館。まっすぐ南下すれば旧本丸最高地点あたり

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可能な限り高度確保のため進行右側ルートを選択。そのわけは江戸城は海まじかに位置するため。

皇居そばにあった地形を踏まえた標高がわかる下の図が最も参考になる。

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神田山(駿河台)→低地→麹町台地と進むのが必然となる。

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桜田門

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桜田門内から外を見れば、刑事ものドラマでおなじみ警視庁

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2022.2.23(祝日)、朝8時に地下鉄日比谷線三ノ輪駅から歩き始め、15:40到着。急ぐことはない散歩レベルの速度で8時間弱で着いたことになる(昼食休憩コミ)。

JR御茶ノ水駅から皇居まで歩いていこうと思ったことなどなかったが、こんなに近く、わかりやすい位置にあるとは思わなかった。

古代東海道 武蔵国⓲ 本郷通りのゆくえと参考文献

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これでいいのかと、少々不安ながらの、お茶の水行きであったが、帰ってからとても良い本に巡り合った。

 著者は元柏書房の社長さんで、地図学会の評議員や東京経済大の客員教授を務めている。書名からは元社長さんの趣味的なものに感じてしまうが、中身は専門的研究書と言えるしっかりしたものだ。

 初版は2013年。それが2020年新版となったものだが「増補 坂の5種類と道について」その中でとくに「本郷通りのゆくえ」「本郷通りの謎」は古代道を考えるうえでも参考になること極めて大きい。

また、添付古地図などは他に例を見ない鮮明かつ必要サイズに拡大されたものであり読みやすい。この分野の基本書ともいえる貝塚平氏「東京の自然史」の資料・写真がモノクロでわかりにくいのと対照的だ。ポイントは以下に。

 ・本郷通りは、両側から開析する谷を避け、台地の中央をたどる典型的な尾根道

 ・本郷とは湯島本郷のことで、本郷も湯島も江戸以前にさかのぼる古い地名

 ・鎌倉時代の奥大道の一部ともいわれる歴史的にも重要なルート

 ・しかし、この尾根道は江戸時代初期に江戸城防衛ラインである外堀(神田川)によっ

 て分断された結果、ルートを大きく捻じ曲げられ、神田明神湯島聖堂の間を抜け、

 神田川に存したすじかい橋を渡り、見附から江戸城外郭内に入るかたちに変えられて

 しまった。

  逆に言えば外堀(神田川)以前このミチは本郷台地中央を,東南にカーブせず江戸城

 に向かっていた。

 

 前回(武蔵⓱)で外堀通りにぶつかっているが、神田川が通る前ならそのまままっすぐに進んだと考えられる。下の図で青〇が私が歩いたルート。芳賀さんは高台の本郷給水所あたりを通りながら南下することになろう(赤丸)。

 

 

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古代東海道 武蔵国⓱ 向ヶ丘弥生町→東大本郷キャンパス→本郷3丁目→お茶の水橋

さて、あまり寄り道ばかりをしていると時間が無くなる。浅野キャンパス(弥生2丁目)

を出て本郷キャンパス(本郷7丁目)を横切り、正門から本郷通(国道17号)に出ることにする。

 

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浅野キャンパスと本郷キャンパスに挟まれたところにひっそりと隠里っぽい格調高い町並みがある。ここもかって広島藩主浅野家の屋敷のあった所らしい。そのせいか、広島県人会の修道館があるようだ。

街路名は見当たらないがつけていないのだろうか。



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進行右側に弥生美術館・竹久夢二美術館がある。ごちゃごちゃしてイマイチの感。

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本郷キャンパスに弥生門から入る。

工芸品のような門だ。修学院各ブロックの門より手が込んでいる。

 

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ここは南禅寺の疎水よりずっといい。皆が写真を撮るところとなっている。

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正門を出た。

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正門前から本郷通りお茶の水へ。

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本郷3丁目交差点

変哲のないつまらない証拠写真と思っていたが、そうではなかった。

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「本郷もかねやす迄は江戸のうち」と言われた400年の歴史のある「かねやす」が賃貸ビルとして見えている。


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千代田区以外でも越境入学が話題になるところ。

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すこし進んで迷う。まっすぐ道なりに17号本郷通りを進むべきか、それとも右折してお茶の水を目指すべきか。

 

(ここら辺は大病院も集まっている。ひとつ奥に東京医科歯科大病院が見えているが同大は下総国府とここの2か所で古代道沿いに位置していることになる。)

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後述することになるが古代の地形を踏まえると直進すべきと考えられるので
道路標示上では右折を選択する。

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すぐに神田川に沿う外堀通りにぶつかる。右水道橋、左お茶の水秋葉原

右左それぞれに異動履歴箇所があり、ある程度の土地勘はある。

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左折して少々歩いてお茶の水橋。

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古代東海道 武蔵国 ⓰ 漱石旧居跡→根津神社→根津小学校→東大浅野キャンパス・弥生二丁目遺跡

漱石旧居跡前(千駄木1丁目)の道を南下すればすぐ日本医大前交差点。

 

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少々くたびれた感じ。再開発されるのかな?

ここで90度右に曲がれば本郷台地の尾根道である本郷通りにつながる455号にぶつかる。そのルートで道なりに進むのが手っ取り早いが、薮下通りなどせっかく一工夫で進んできたので根津神社を見、遺跡のある東大キャンパス内を通って行きたい。

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東大キャンパスは弥生、浅野、本郷の3キャンパスに分かれる。遺跡(星印)があるのは弥生キャンパスではなく浅野キャンパスなのでここを目指す。

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根津神社

交差点を左折して根津神社裏門へ進む下り坂だから「根津裏門坂」というがかなり高度は下がる。

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高度を上げるため少し戻って小さな道に入って進むことにした。

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進んだ先で弥生キャンパスにぶつかる。

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この道は新坂(S坂)と言い、鴎外にも縁ある由緒ある道

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まっすぐ進むと不忍通りまで降りてしまうので手前で右折する。

坂にまみれたわかりにくいい道となるが本郷台の崖と地域で有名な根津小学校を認識できる利点はある。

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藤島亥治郎氏(東大建築史教授。1899~2002)は「あの頃はちょっといい家の子はみんな誠之(せいし)小学校に越境で行っちゃったけど、僕は根津小学校に行ってよかったと思っている」と森さんに話している。

 

根津小の先で弥生坂に出る(319号言問通り)。

少し登って浅野キャンパス入り口が見えてくる。

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なお、弥生坂右側のゾーンも明治以降浅野家の土地だったらしい。

浅野とは安芸国広島藩42万石の大大名。

本で名前を知る多くの著名人が住んでいたようだ。
 前述の本は、佐倉城主堀田伯爵、寺田寅彦その他を地図概略とともに挙げているが中には団藤重光までいて、そんな最近の人まで大丈夫かと心配になるほど。

団藤の刑法綱要総論・各論は全国の法学部学生の基本書にもなっていた。ある刑法学者の葬式で弔辞を読むのを聞いたし、JR飯田橋あたりで学生とともに座席に座っているのを目にしたが、亡くなってからずいぶん経っているようだ。

 

お地味な門が少し開いていてそばにいた警備員氏に入門の可否を聞いたところ、快諾。

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言問門というようだ。構内の案内図でないと門の名は出てこない。

遺跡のことを聞くと打てば響くように9号館の後ろと教えてくれた。

市川市国府台の東京医科歯科大とここ弥生2丁目遺跡の東京大学の好感度は上昇。

古道が見つかっているW女子大は「キャンパス内入構ダメ、遺跡?私は地元の人間でないから知らない」といわれたのと大きな差だ。

 

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すぐ前にあるのが新しい遺跡発見地跡に立つ武田先端知ビル

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弥生二丁目遺跡

この左の道に入って9号館の後ろ、倉庫前にポツンと寂しく大昔の人の息遣いが。

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学史的、学術的重要性のため、国の史跡になったという割には小さな金属板の標示1枚と、とてもお地味。

今、全国の自治体が遺跡について国の指定を受けるため払う奮闘努力は大変と聞くが。

 

続く

古代東海道 武蔵国⑮    3⃣日本医大→漱石旧居跡

薮下通りに戻り、進む。

方角的にはどこかで右折することになるが、期待していた案内表示はない。

多分このあたりかと勘で入ったのが下図の解剖坂。

 

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少しのぼりとなる。日本医大の建物が多い明るい高台。

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突き当たって右側すぐにあった。

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祝日のせいか散歩中の父と幼い息子がいて、父が「塀の上を見てごらん」と言っている。それを耳にして私も見た。

 

 

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おや、面白い。ちょっと太りすぎの感じもするが。

このあたりで「吾輩は猫である」が書かれたかと思うと感慨深い。

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 車谷長吉さんは晩婚・初婚同士で結婚した高橋順子さん(詩人)から出身の東大近辺に住みたいとおねだりされて駒込千駄木町に家を求めたと書いている。

確かに千駄木は高台で日当たりもよく、それでいて広尾や南麻布同様全国区でない静かなところがいい。

外房出身の高橋さんも通学して初めて知った地域であろう。バブルの時、千駄木の住宅地で坪1千万したらしい。