古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

迅速測図と活用v2 / 古代東海道 下総国㉟

迅速測図(圖) 

1⃣比較的新しく歴史・地理について書かれたものを拝読すると参考文献として迅速測図を挙げる人が多い。

研究者はむろん、郷土史家、はたまた町内会のレポートまで。

 例 市川市国分町自治会には中国分史書編集委員会なるものまであって格調高い発表をされているがそこで添付。内容も自治体の市誌や学芸員と変わらないレベルに感じる。

 (参考) 引用されている迅速地図では国府台に軍隊が進出する前の土地の様子や江戸川右岸江戸川区の様子もうかがえ、興味深い。やはり現里見公園対岸には都心に向かう道筋が見えている。

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☆Aは真光院か Bは渡河推定箇所 Cは北:里見公園・総寧寺、東:国府台病院への分岐点

屈曲点Dは左:和洋女子大入り口、右:国府台スポーツセンター入り口(国衙推定地)

矢印1は総寧寺参道であるが古代時の渡河点に向かう道という考えはどうか

矢印2は現県道松戸線、矢印3は弘法寺への道、

 

2⃣ 広義では歴史・地理になるのだろうけど、植生、生態学分野でも活用されている。

 市川市史 自然編に次のような記述があり、至極納得する。

 「過去の植生は地下に遺された植物遺体に基づいて推測されるが、明治時代になると地形図が登場する。最も古いものは1880年(明治13年)に作成された迅速測図である」とし江戸時代後期から続く植生の概況とみている。

(第2章市域の自然の姿とその変遷 第2節低地に水田が広がっていた時代 (1)土地利用図を用いて地域の変遷をたどる。p43)

迅速地図がなかったら江戸時代後期の植生は地面を掘って植物遺体を調査するしかなかったわけで、文字や図面に遺しておくことがどれほど価値を有することか門外漢でも理解できるところだ。

同書は「市の木」黒松についても迅速図原図を重要な説明資料に用いている(第4章第2説 P188)。

3⃣では迅速測図って何?であるが

ここで話題とする地図の正式名は第一軍管地方二万分一迅速測図

概要は(ウイキペディア)          

*復刻版を発行している地図センターは、明治13年から明治19年にかけて作られた「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」は陸軍参謀本部によって実施されたわが国初の広域測量の成果。等高線等による地形表現のほか、水彩絵の具により市街地の状況や田畑を巧みに彩色してあり、見た目も美しくわが国近代地図作成史上最高の傑作といってもよいと激賞する。

しかし、地図作成を含む軍制全般がフランス方式からドイツ方式に移行されたため原図もドイツ方式の一色刷り用に書き直されて刊行されたため、原図は日の目をみることなく倉庫で長い眠りについていたとのこと。

迅速図の例

下は更級日記中の「くろとの浜」あたりではないかとされる黒砂村落部

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なお、地図名は千葉県下総国千葉郡黒砂村落となっている。古代の国名の前に明治期の県名が来るとは興味深い。

東京湾ではなく品川湾と記載。確かに江戸時代に東京湾はありえない。

木の種類も記載されているが,木偏に右側の上が八,下が口という文字が散見される。辞書にはショウと読み、松の別体とあるが松の文字も使っており意味不明。

測手 陸軍砲兵少尉 小野田健二郎とある。

 

迅速測図自体の歴史を考えると伊能忠敬の地図以上に興味深い。明治政府は倒幕したのに旧幕府の技術官僚的幕臣の力に頼ったわけだし。

 

古代東海道 下総国㉞ 井上駅と本道・支道分岐点

下総国国府の位置はほぼ解明されているが、最寄りの駅「井上(いかみ)駅」については争いがある。

 

A説 国府の推定される市川市国府台より1km坂を下った砂州上とする。現市川広小路あたりか。

参考引用地図 地図で見る東日本の古代 P133

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市川広小路

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B説 国府内の常陸国に向かう本道と上総国に向かう支道の分岐点に近い地点とする。

参考引用地図 2004年「古代の道」(著者武部健一)P83

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武部「古代の道」は1冊で畿内東海道東山道北陸道について記述しており個々の道路につい詳しく記述する余裕がないなか、東海道下総の房総路井上(いかみ)駅近辺についてはかなり綿密な記述を行っている。よほど思うところがあるのだろう。紹介する。

 

豊嶋駅(東京都台東区谷中霊園)の次の駅は井上(いかみ)駅(市川市国府台)で、下総国府から南に1㎞ほど下がった地点に想定されていた。井上(いかみ)駅は古くから諸説あったが、1986年に下総国府のある国府台で「井上」の墨書土器が出土して以来、その周辺であることが定説化した。

具体的な場所として山路直充が国府台下の砂州にあるとした。しかし、分岐点は駅に置かれるのが一般であるのに、井上駅をこの位置とすれば分岐点であるべき駅位置としてはあまり適当とはいえない。

木下は井上駅下総国府の付属駅だと考えている。付属駅が必ずしも国府内にあるとはいえないにしても、この場合のように分岐点が国府内あるいは直近にあると考えられる場合には井上駅そのものも国府内(または直近)にあったと考えてもよいのではなかろうか。

そもそも「井上」の墨書土器も台地上で出土したのではないか。

あえて仮説を提示し、図44でも井上駅を分岐点の位置とした。豊嶋駅からここまで12.4キロである。井上駅の駅馬数もこれまでと同じく10疋である。

 

私もB説を採る。

ただ、A説は分岐点を上記地図にあるように井上駅あたりに設定するので分岐点から遠いゆえの批判はできない。問題は分岐点をどこに見るかであろう。

私はA説に次の点から疑問を抱く。

豊嶋駅(台東区谷中霊園)から東京低地を通って延喜式東海道本道上の常陸国茜津(あかねつ)駅に向かうとすると江戸川右岸前方で鋭角に南下して川を渡り、井上駅で90度左折して北上することになる。直線で進めば1本で済むところを何故ほぼ2倍の距離を要するコースにする必要があるのだろうか。

平地間なら距離だけの追加で済むとしてもそこに高低差があればなおのことシビアな見方がされるはず。

現県道1号線(市川・松戸線)はそのまま古代東海道というわけではないが、今でもかなりの傾斜度のある坂で、子供の時から大人になるまで日々通勤・通学に使っていた者にはいつも意識していた特徴である(バス便)。

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そもそもこの京成国府台駅あたりから和洋女子大、千葉商科大、東京医科歯科大につながる現状の坂道は古いものではなく明治期に国府台を陸軍基地とするため新規に変更拡幅されたもの。その前はより狭く急傾斜であった。

 

 

当時の傾斜は現県道両脇に残る坂道(AとB)の方が当時の実態に近い。

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Aの様子

 

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この道路北方に法皇塚古墳が存する。

 

Bは

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実際は写真より傾斜感強い。

この先の県営住宅や郵政省官舎付近ではかなりの遺跡が発掘されている(古代道跡を含む)。

地域情報誌

坂の基部と上部の高低差は次の写真で理解できよう。左上の木立に住居が見える。

 

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遠回りして重い荷物を押しながら長い坂を上る必要はないのではないか。

それより上小岩‣現真光院付近からまっすぐに東進、渡河して現東京医科歯科キャンパス内古墳の脇の道を通る方がはるかに合理的だと思う。

 

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この渡河点aから先の分岐点(現国立国府台病院付近)bまで距離は近く、高低差も20m程度でハードルは高くない。すでに数百年前に同地に前方後円墳を作る土木技術を有していた民が必要に迫られ道路掘削・整備するくらいさして困難には思えない。

 

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平地ならいざ知らず国府域が南に向かって低地(真間の入り江)となるところではなおさら、国府内の官道の交錯する箇所に井上駅を設定したと考えたい。

 

かような考えは現代の鉄道基地でも同じだと思う。下図は京成電車高砂駅付近のもの(高砂検車区)。こうすれば2ルートに分かれる線路双方からの入・出がしやすくなる。

本線と支線などまるで街道のお話のようだ。

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駅家がどこにあったか、またその間をつなぐ駅路がどのような経路を通っていたか

 

 これについて武部氏が木下良氏の基本的見解を基礎としてまとめている。極めて有意義でさすがに専門家という印象を受ける。

 

10項目挙げているが、そのうち②と⑧を引用・紹介(前著p12から14)

②駅家(うまや)の位置は、駅路の屈曲点、他の道との交点,渡河点など交通上の接点である場合が多く、また小丘陵など災害に対して安定的な場所であり、かつ泉、井戸など豊かな水源のある場所が選ばれた可能性が高い。

⑧渓谷などの曲折した水路、あるいは屈曲の多い海岸線に沿って駅路が通ることはほとんどない。むしろ屋根沿いに山を越えて直達する場合が多い。自然災害に対する安定性と軍事上の安全性の両面からの意味を持つ。

 

当ブログでは現江戸川を渡河する地点を東京都江戸川区上小岩遺跡通りの対岸、里見公園と東京医科歯科大の間ととらえ、そこの道を登る付近に井上駅があったと考えているが上記②の要件はほぼすべて充足することになる。

古代東海道 下総国㉝ 市川の邸宅街

芦屋、田園調布、南平台以外にも、それこそ日本中どんな地域にも他と違う上質雰囲気の漂う町並みがある。

そういわれるところの特徴は少数数軒だけが際立って豪邸というのではなく町並み全体が落ち着いた上質な雰囲気をもっている点だ。

ポットでのよそ者あんちゃん記者が書く、住んでみたい街ランキング的記事では到底フォローできるものではない。

逆にだからこそ目利き白洲正子的な京、奈良以外にもこんなに魅力あふれる隠里がありますわよという視点に価値が見いだされるのかも。

 

東京の3倍はあろう広い千葉県にも私が見る限り1か所、更科日記一行の通り道であっただろう市川砂州上にある。

 

町名で言うと真間、菅野、平田、八幡あたりだ。

真間川の北側や永井荷風が好んだ八幡の町並みだけではない。あまり取り上げられていないので紹介を。

 

真間

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菅野

 

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八幡

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一般論でいえば国分寺がある国分町は歴史が古い歴史的風土地区でよいところに思われるだろう。

しかし昔、各国の中心であって栄えた地域でも千数百年たつと事情は違ってくるようで昭和の時代、真間、菅野、八幡に住んでいる人から見るとその北方地域は遅れた農村地域にしか見えなかったようだ。

市立菅野小学校(菅野6丁目)出身の友人はこう言う。校舎西側にバス通りがあった。

その道に入ってすぐ先に橋がある。名前は古代を思わせる「府中橋」。

府中橋あたりから様相はがらりと変わり、水田だらけの農村地帯。

(須和田町その北は国分町)

住む人は世界が異なりお友達にはなれない感じがしたと。

 

超売れっ子だった井上ひさしさだまさしも居住地は確か北の国分あたり。九州出身

でありながら熱烈市川愛好家の詩人宗左近も14号線より南住まいでそのことで井上ひさ

しに半ば冗談にコンプレックスあるを話している。

旧市川砂州上の土地にはまとまった広さの物件が出ないということもあるのだろう。

 

古代東海道 下総国㉜ 市川砂州と地表の現状(構築物)

下総の国府井上駅家、どこで現江戸川を渡ったかについて考え、進む前にそこへの通り道になる市川砂州の現状(地表構築物)を見てみよう。撮影は直近2021年11月。

ちょっとローカルすぎるので遠方の方はつまらないかも。逆に有名作家がいたところなので関心がわくかも。上総の国府のあった市原市の様子と比較するのも興味深いかも。

 

訪問箇所は以下のとおり

 市川市役所・八幡の藪知らず(八幡1丁目)

 葛飾八幡宮(八幡4丁目)

 諏訪神社(平田2丁目)

 地蔵山墓地(市川1丁目)

 市川真間駅(真間1丁目) 

 

はじめにもう一度この図を

  

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 市川市役所

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これを見て九州・福岡アクロスと同じだと直感。片側を階段状にして植栽を施す思想はかねてから熱烈支持する立場なのでうれしい。

ただし、福岡アクロスは植栽部が広くそこを階段で直接登れるが、こちらはそれはできず、また内部から出ることもできないとのこと。

小ぶりだからやむを得ないのかも。

設計について説明するしっかりした資料も欲しい。

 

中の様子

永井荷風井上ひさし、画家の東山魁夷が市として特に押したい3人か。1階には永井の執筆部屋の再現。

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川崎家は魁夷の奥さんの実家(東京芸大教授)

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カフェかと思ったら、来庁者と対応するためのテーブル。

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資料を購入したが、ここで待っていると持ってきてくれた。過剰サービスではないか。フロアに案内のため立っている幹部職員らしき人もいるなど人件コストがかかりすぎる気がする。

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旧庁舎敷地に作っているが千葉街道と京成の線路に挟まれた敷地は狭くキャパは足らず他の庁舎に分かれる。東京都庁の第一,第二庁舎は渡り廊下でつながるがここは離れすぎ。

博物館も図書館もそうだが全体として庁舎の立地は利便性に問題がある。いいプランナー、それを使いこなしてうまく事を運ぶ人材はいなかったのか。

 

八幡の藪知らず


 市役所と道路の反対側にある。外構はずいぶんと立派になっている。正岡子規明治24年ころこの前を歩いている。

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葛飾八幡宮(八幡4丁目)

京成電車の北側に位置する。

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旧図書館

そのまま残っているとは驚いた。

五木寛之が利用。私も。

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諏訪神社(平田2丁目

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諏訪神社だけでなく周囲も保全されている。

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市川砂州の典型、黒松風景と土壌砂地がわかる。

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地蔵山墓地(市川1丁目)

こんな共同墓地があること、そして取り上げる人がいる意味がわからなかった。

行って見るとなんと小学生の頃行ったことがある自然幼稚園の裏というか北側にあった。

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砂地だ。市川砂州で標高の高い箇所らしい(4m数十センチ)。ここら辺は市川の木黒松が多いことでも有名。

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海からの風で北に傾く。

市川真間駅(真間1丁目) 

墓地の北、狭い迷路のようなに道を進むとすぐに駅。五木寛之永井荷風を目にして後ろに並んだ真間(まま)駅。

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万葉の頃から人が住み続けているであろう真間1丁目あたりは特に道が狭く区画整理もできないようだ。

 

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なお、地元の者は「まま」を「柿」のように平板に発音するが同じ千葉の人でもよその地域、東京の人は1音目を高く発音する。

考えてみれば標準語のアクセントなら1音を高くするはずだ。なんでだろう。

 

(全体の位置関係はこのようになる)

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くろとの浜と黒砂くろとの浜公園

更級日記において「くろとの浜」はいろいろな意味で重要なポジションをもつ地名だ。

市原市立図書館主催の講演会で配布されたレジュメには黒砂くろとの浜公園の写真が載っていた。

当ブログ古代東海道更級日記下総国⓴では少し北側(内陸)、千葉大と敬愛大キャンパスの間の道黒砂台をそのまままっすぐ東京に向かって歩いた。

 しかし、黒砂くろとの浜公園は紙資料で探そうにもわからない(新しいせいもあるが)。1万分の1,7千分の1には載っていない。グーグルマップにも出てこないとは珍しい。

実踏するしかない。

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自転車で探索し、道路に立つ案内板でようやく。

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下の図がわかりやすい。

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私はAで進んだが千葉街道Bからすぐ登ったところにあった。

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 新港横戸町線は相当な大規模工事だったらしく、ざっと見る限り歴史を感じさせる雰囲気は残っていない。この公園をこのネーミングにした根拠はどの辺にあるのか説明が欲しい。

 率直な印象からすると海に近すぎる。すぐ下が黒砂陸橋でそこは海だったはず。

「砂子はるばると白きに、松原茂りて」の立地とはいいがたい印象を受ける。

 

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 ただしこのあたり平将門配下の6人の武将が逃げ延びて住み着いたとの話もあるところで土地の人の愛郷心は強く、新港横戸町線道路工事には相当の反対運動があったようだ。かなりの地域資料が見受けられる。

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上記写真「黒砂分教場の歴史」に海縁の道路事情が分かる記述がある。昭和13年黒砂分教場に勤めていた遠山あきさんの手記だ。

 文章も描く世界もいい。まるで「24の瞳」のよう。

(以下引用77頁)

分教場は海をすぐ眼下に眺める丘の中腹にあった。

始業も終業も、カランカランと窓の外にぶら下がっている鐘の紐を引っ張って鳴らした。

 略

 学校のすぐ下は国道で千葉市の登戸(のぶと)から稲毛の方へ道は一直線に伸びていた。道から下はすぐ砂浜で、続いて遠浅の海だった。

嵐の時は海の大波が国道にもろにかぶさってきて,校舎の窓ガラスが潮のしぶきに濡れて曇ってしまう。バスは運休になり、こどもも時にはお休みにするときもあった。こんな時、分教場主任の先生は「早じまいにしましょうや、バスはだめですから京成電車で帰ってくださいよ」ということで、私は坂道を登り~

 略

 この分教場の位置は4枚上の写真に記念緑地として残っているのがうかがる。

 

四国の遍路道もそうだけど海縁の道は時として通れなくなることもあり、高台を通る迂回道が用意されているところが少なくない。

土砂崩れのある山道すぎるのもリスクがあるがそれほどでない高台ルートならそちらが一般ルートになるのもおかしくないと思う。

 

 

なお千葉街道が海に面していた点は次の写真からもうかがえよう(道路の左側は海)。かっては道端で地元漁師がハマグリを売っていたそうな。

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古代東海道 下総国㉛ 砂州と松の木

孝標の娘は白砂と松林の風景が好きだったようだ。

泊まった黒戸というところ(下総の国、現千葉市のどこか)は片側が広々とした砂丘で砂浜は遠くまで白く続き、そこには松原が茂っているとその情景を愛でつつ描写している。

 逆に武蔵の国では「ことにをかしきところも見えず。浜も砂子白くなどもなく」と東京低地の景色のつまらなさを嘆いている。

 

さて、京成沿線、特に菅野から真間にかけてはなぜか黒松が多かった。海岸沿いならわかるが海から遠く住宅地の真っただ中、時には道路の真ん中に生えているものがあり子供心に奇異に思ったほど。

(外郭道路ができる前の日の出学園校庭ふちに多かった)

そんな風景ももうないかと思っていたら決してそうではなくまだ残存風景があった。

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そして意識してここら辺の原風景ともいえるところを保存しているところもあった。

京成菅野駅南側に位置する諏訪神社あたりだ。

ここは何とか将来にわたって残してほしい。

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住居表示で言うと市川市平田町だ。考古学会、特に市川市にとって恩人ともいえる杉原氏もこの近所に住んでいたと最近知った。

 

 松が多いのはここら辺が昔、海岸だったからと聞いていたが、へーこんなところがと思うだけで長年それで終わっていた。

 6月初めて市川市立考古博物館に行きその掲示を見て合点がいった。博物館って、カビの生えるようなイメージしかもっていなかったが身近な疑問点を解明してくれる有用性を認識した。

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 市川砂州というらしい。なるほどこの上に伝統的市街地が形成
されていたのか。

 砂州は隣の東京都江戸川区まで続きその先に上小岩遺跡通りが見えている。古代東海道は市川の井上の駅からそこにつながるとみるのが素直な解釈だろうと思う。

時代による海岸線の推移は左下の箇所に。

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古代東海道 下総の国㉚の2 永井荷風と五木寛之氏

氏のエッセイの続きはこうだ(一部)

 のちに荷風が人に気づかれずに死んだニュースを聞いたとき、あの風の中に一人立っている老人のうしろ姿を思い出して、なんとなく胸がしめつけられるような哀しい気がしたものである。

 私は荷風の愛読者というほどは読んでいないし、その影響も受けたおぼえはないが、なぜかひどく忘れられない存在として残っている。

 

五木氏は対談、時折のNHKラジオ深夜便,エッセイといまだ健在、健筆。

 

婦人雑誌での佐藤愛子氏との対談がなかなか味わい深い。愛子氏98歳、寛之氏88歳と

か。二人とも頭ははっきりし、愛子氏はこの御年でいまだきれいと言える容貌だ。

多くの友人知人がなくなり寂しくなっていることを、乗っているバス(車両)の乗客が降

りてゆき、気が付くと乗客は自分一人になっていた、と表現する。

さすがの表現だと思う。90歳くらいになるとそうなるのであろう。

 

 五木氏が真間駅で永井荷風にばったり遭遇したように、私も五木氏のお姿を偶然目にしている。

一は日本橋高島屋紳士靴売り場で。少し離れたところに鞄を持った男性秘書?が待機。

本人は靴を手に持ち、顔を近づけ異様ともいえる執着心で靴を吟味。なんだか製品開発研究者のような雰囲気。

 とても気になった。

かなり後になって氏がエッセイを連載している日刊ゲンダイを偶然目にすると、靴にこだわっていることを書いていた。その理由も思い出せないが戦後の貧しさが絡んでいたかもしれない。

 二は都内某大学の付近で。

髪の毛はぼさぼさ、顔色は悪くとても不健康に見えた。が、30年ぐらい後の現在でも長寿で現役なのだからわからない。

氏について

 私は五木さんの文学作品はほとんど読んでいないし、その影響も受けたおぼえはないが、街で拝見したお姿と真間駅でのエッセイが忘れられないものとして心に残っている。

と思う日が来るのは遅いほどよいと思う。

 

 

古代東海道 下総の国㉚ 市川市立図書館と五木寛之

市川市は下総の国府があった所であるがそのほか、なぜか万葉の時代から現在に至るまで異様に多くの文学あるいは文学者と縁がある。

東大本郷の近くの住宅地や幕府があった鎌倉がそうなのはわかるが東京東隣の変哲のない千葉の小都市が何で?と不思議に思えるほど。

 近代、その中でも比較的有名なところで、幸田露伴,伊藤佐千夫、永井荷風北原白秋島尾敏雄中野孝次井上ひさしさだまさし、、五木寛之、それにあの村上春樹まで。

本ブログのメインテーマからはやや逸脱するが、地元出身のはしくれとして紹介したい。まずは五木寛之氏の次のエッセイから。

昭和45年38歳時に雑誌に連載した随筆「ある日日本の片隅で」

 

競馬に熱中して中山競馬場の近くの北方町(ぼっけまち)というところに住んだことがあった。総武線に乗り換えて下総中山で降り、さらに満員のバスで競馬場へ向かう労力が省けて楽だった。

(略)

晴れた日には市川の図書館へ通ったり、本八幡の映画館の薄暗い2階で古くなった洋画を見たりして過ごした。時には京成電車台東区の方角へふらりと出かけることもあった。

そんなある日、京成市川真間の駅のホームで、永井荷風に初めて会った。

北風の吹くうすら寒い夕方、その老作家はジャンパーの襟に首を埋めるようにして、集金袋のような手提げを手首にかけて電車を待っているのだった。

私にはそれが荷風だとなぜかすぐにわかった。そして、一種の片思いにも似た親近感をおぼえ、その人の背後に立って、一緒に電車を待った。

(略)

 

北方と書いて「ぼっけ」と読むなんて地元でもかなり近所じゃないと知らない世界。

当方、その葛飾八幡宮境内同然のところにあった八幡の図書館も、JR本八幡駅前にあった映画館も、京成真間駅も子供の時からなじんでいるだけに懐かしい。

八幡の図書館は今の基準からしたら信じられないくらい狭く、蔵書も少ない貧相なものだったが当時はそんなものとして利用していた。

 あの2階の大きな平机に向かって後に売れっ子作家、直木賞作家になり、現在80有余の年まで現役でいる文学者が座っていたとは感慨深い。

 

その後、図書館は工場跡地に移転したと聞いたが当方転居しており、また立地が駅から遠い不便なところらしいので一度も足を運ぶことがなかった。

しかしにわか考古ファンとなり、鬼高遺跡に関心を持ったところそのそばに移転した市川図書館があると知った。

 これは寄らないと。

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 ちょっと古代史に関連というかこじつけて言うと国分寺の旧跡はほとんどわかっているのに国府,国庁跡は不明なところが多い。

思うに行政庁は時の権力者の都合で転居することにさほどハードルは高くないからではなかろうか。

狭い、不便、水が出るその他いろいろな理由があろう。蔵書数が増えたから移転するというのも同じようなものでは?

 

新図書館は打って変わってモダンなものになっていた。

図書館に入ってから子供対象と一般用のゾーンが別になっているところが多いがここは入り口から別になっている。

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左の一般用の入り口に向かう。出と入りが別のドアになっている。

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入ると、

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これは見事。

国会図書館より感じがいい。

何かの賞を受賞しているらしい。

幅広のホワイエのような吹き抜けの通路の片側に開架書棚が並ぶ。

スチールを排したウッドの書棚、蔵書数を稼げないのに低い高さにしてある点は立派。

 

こちらは地域資料

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近隣自治体の資料が見当たらなかったが、書庫内?

例えば市川市国府台北隣の松戸市栗山古墳遺跡とか川向こうの葛飾区柴又古墳に関するものはそばにあるとよいと思うが。

 

当方の愚著が5冊あった。ありがとうございます。

古代東海道 下総国㉙ 鬼高遺跡

船橋市本中山→市川市鬼越→鬼高と続く。

鬼滅の刃じゃないけど「鬼」の字はインパクトがある。

 1919年大正8年) - 耕地整理により鬼越、高石神の各一部より鬼高を新設、東葛飾郡中山村大字鬼高となったそうだ。 確かに京成沿線に鬼越、高石神の町名が見える。

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14号千葉街道の南側(海側)というと古くは田んぼや塩田が多かっただろうけど昭和期は低地かつ工場や物流倉庫が多く、緑豊かな住宅地というわけにはいかず旧来の市民からは住みたいゾーンではなかった。 デズニーランドが来る前の浦安のイメージも同類だった。

昨今は水が出た東京西部の武蔵何とかのタワーマンション街と同じでマンションも増えてきてだいぶイメージも向上しているようだ。

 鬼高遺跡があるところも前は工場地。上記地図は東京オリンピックの4年前昭和60年のものであるが再開発用地となっている。

杉原壮介氏により1937年(昭和12年)に行われた共立モスリン(株)中山工場内(現ニッケコルトンプラザ)での発掘調査で発見された。詳しくは以下の遺跡地にある説明を参照。

 

 (現地は現在、住宅展示場の合間にある公園となっている。立派な石碑はあるが遺跡らしきもの、そしてその雰囲気は全く感じられず残念。古墳のように少しでもふくらみがあるものならいいのだけど。低地での遺跡という点では千葉市の神門遺跡と同様で数が少ない。)

 

 

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昭和12年ころ、学生は学帽をかぶり、指導教師は泥の中でもネクタイをしていたことがうかがえる。この10年、ネクタイをしなくなったのが一般化し、風俗は激変。

 

 

遺跡の位置について「砂州」、「微高地」、「沖積低地」などの言葉が使われるが当方その区分けが判然としないので以下参考文献を引用する。

 (千葉県の歴史 資料編考古2 821頁 木島桂子氏)

鬼高遺跡は現在の市川市市街地がのる市川砂州(さす)標高4~7mとその前方海岸寄りに位置する微高地(標高2m)との間の、平坦な沖積低地(標高約1.5m)に所在する。

もっとも近い下総台地の南端からは約1Km、市川砂州の前面からは約500m離れている。

 出土遺物の中で最も重要とされるのは古墳時代後期に位置づけられる土器の一群であってそれらの土器は杉原氏により鬼高式土器と命名され、本遺跡はその標識遺跡であるとのこと。

 

 

古代東海道 下総の国 ㉘ 船橋から市川へ

この先のルート概観

市原市上総国府候補地から出発したが、次の下総国国府候補地(市川市国府台)がようやく手の届く距離になってきた。

船橋市以西から市川に至る全体図は次の地図のとおり。

古代東海道の立地するところは京成沿線の微高地になるが、その京成駅名を見るだけで雰囲気がわかる。

すなわち東中山、中山、鬼越、八幡、菅野、真間、国府台と。

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 なお、市川市は当方が言葉を覚える前から、すなわち赤ん坊の時から長年住んでいた場所であり、しかも歴史の濃い真間、菅野、八幡、国府台といった遺跡、国府域の真っただ中で生活していたので肌感覚で感じるものが少なくない。

 そのことでこの地域の千年前のことだけではなく近時半世紀の変遷、変化についても感じるものがあり一言二言言いたくなるものが出てきてしまう。

余計なことも語りたくなる点をご宥恕願いたい。

 

 では船橋本町通りを進み、前に話した船橋市海神の「入り日神社」あたりから。

 

JR線路にかかるかなり傾斜のある陸橋を渡る。

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降りて千葉街道と合流する少し前を左折する。

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集合住宅に挟まれた狭い参道

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こちらは上の14号から下りる階段

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由来の石碑

反射してよく見えないが日本武尊の伝承にかかわるもので、ものによって表現が微妙に異なる。

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延喜式神社の元宮というのだから沿革としては千年を超えることになろう。

 

通りに戻りすぐに房総往還と千葉街道は合流する。

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京葉道路、湾岸357号、16号といった道路ができる前の東京と千葉を結ぶ道は旧千葉街

道これ一本。

 

西船橋駅

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まだ残っている松の木

市川駅前の三本松はとうの昔に切られている。

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今、この道で遠くまで行こうとする人はいないと思うが、久しぶりというか何十年ぶりかで歩くと東京湾の砂浜埋め立てが始まる前の昭和時代の雰囲気がまだ残っているのに感動する。

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下の写真で左が東京・市川方面、右が千葉・木更津方面。道路の少し奥が段丘周縁部。

そして並んでいる木々は松の木。道路手前は海岸。

これこそが市川まで続く古代からの典型的な海岸通り風景。

 

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今回初めて知った風景があった。

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なんだと道路左側に降りてみた。

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湧水とか降り津という文言が見える。高台の下には当然に絞り水が流れるわけで昔の人は大切に使ったのだろう。

池のふちに生えていた数珠玉が新鮮だった。

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少し歩くとまた同様な箇所が。

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葛飾湧水群と言うらしい。

そうか下総の国の中で千葉郡から葛飾郡に進んでいるのだ。

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図中にある多聞寺

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道路バス停の表示は地名を知るのに役立つ。本中山一丁目とある。

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市川市に入った。

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ここで左折して大規模再開発地点コットンプラザに行くことにした。

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目的は鬼高遺跡と市川図書館に立ち寄るため

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古代東海道 下総国㉗ 船橋市海神「飛の台遺跡」② 、オトタチバナヒメ伝承と文京区妻恋神社

 


先週土曜日のブラタモリは渋谷の古代遺跡について特集していた。

いくら地元とはいえ、NHKの「渋谷」への偏愛は過剰ではないかと思われるが、今回はこれまでの「地学」重視から古代「考古学」への関心もうかがえたのでまあ、好感を持って拝視聴した。

 タモリの「昔から人は水害に強く、それでいて水場に近い台地の周辺を求めるもんだね。しかし庶民はその現況地といえる超高級邸宅地渋谷区松濤には住めない」と誰かと同じようなことを話していた。

さて、

 

飛の台遺跡について補充

戸外にあった説明書きが要領よくまとまっていた。

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発掘発見とバイタリティー

この遺跡の発掘に多大の貢献をしたのが杉原氏。もとは商業を営んでいて大学も出ていないが切磋琢磨して名を成した人とのこと。後に明治大学教授。植物学の牧野氏のような印象を受ける。

当方何の利害関係もないがこの分野で東日本、特に千葉県での明大出身者の活躍が目立っている。

東大は初期こそ大森貝塚についてのお雇い学者の関連で活躍していたようだが、このところ、素人サイドには其の尊名はうかがえない。

ちょうど昨今のコロナ禍について活躍/尽力しているのが非東大医学部系の学者・病院に多く、偏差値的志向とは無縁な感じがするのと似ている。

ことを成すには青色LEDの徳島大中村氏のような雑草的バイタリティーが必要なのだろう。

 

合葬された男女がこちら。痛みが激しいらしく、レプリカが陳列されていた。

骨を見てロマンを感じるなんて本来はあり得ないと思うが。

あ、ローランの美少女ミイラがあった。

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ところで船橋の地名のいわれや「海神」に関して古い伝承が言及されているが、最近たまたまこれに関するものを目にすることがあったので紹介させていただこう。

1 日経新聞文化欄「オトタチバナヒメ いずこへ」という記事(弘前学院大入江教授

   2021.10.13)。

ヤマトタケルの東征譚は古代の交通事情を反映しており、走水の海(横須賀市沖)は相模と上総を結ぶ重要な海路でもある。大和朝廷の要衝かつ難所であることから物語の舞台に選ばれたのだと考えられる。」とある。

 

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2 東京都文京区 妻恋神社

まだ先のことになるが、武蔵の国のルート探索で豊島駅の推定地谷中墓地から皇居を目指して歩いているとき、湯島神社の先、清水坂を歩いていると、まったく予期していなかった妻恋神社に遭遇した。

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 書かれていることはまさに日本武尊オトタチバナヒメ伝承であった。

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こんなところまで、と思ったが船橋お茶の水はそんなに遠くはない。入江教授のリストに入っていることだろう。

 オトタチバナヒメが「身を海に投げて海神を鎮め、一行を救ったことから妃を船魂神(海神)として当神社に祀ったという」とある。

 

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