古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総の国㉖ 船橋市海神と飛の台史跡

西向き地蔵尊を200mばかり進むと海神という地名になる。

その前にもう一度西向き地蔵尊の写真を。

右側の上總道(古代道)と左側1600年代の新設道(本町通り)の分かれ目になる重要なポイントとのことらしいので。

 

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右端の格子戸の中の石像が古いものらしい。

そのせいか痛むというか摩耗しているのかも。

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東京都葛飾区の「立石」はすり減って頂部が残っているレベルらしいし。

超長期保存は土中の方が良いみたいだ。

 

 

カイジンという独特の響き。

京成沿線にはママ、オニタカ、カイジンなどどこか変わった音の駅名=地名があり、昔から感じるものがあった。

 

 

 

 

 

何かを感じてしまうのは皆さん同じようで、前回紹介した「船橋の地名を歩く」でも

「3 海神の謎」という項目立てをして書いていらっしゃる。

(以下一部引用)

海神は船橋の歴史伝承の中でも特異な存在。ヤマトタケルが上陸した地と伝えられ、船橋地名の起源の伝承を語っている。古代に湊郷とも、貝ノ瀬ともいわれたのはこの地ではとも考えられている。

 船橋総鎮守の大神宮もここに元宮があったとしている。

江戸時代に入ると本町通りが船橋の中心になるが、それ以前は海神が中心地といわれ、それをうらづけるような「天沼千軒」という言い伝えもある。

 

 

さて、総武線を越え、本町通り・房総往還と現千葉街道は合流する。

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少し歩いて右手にあるセブンイレブンの脇をちらっと見るとなんだか先に魅惑的な坂道が見えてきた。

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思わず誘われるように入ってみるといい感じだ。海神公民館があったので入ってトイレ兼飲み物休憩。

じっくり地図を見るとこの公民間のすぐそばに京成海神駅があり、北方に少し歩くと飛の台遺跡があるではないか。

船橋に住んでいる知人にこの遺跡のよさげな話を聞いたこともある。

それに前述のとおり山路氏は浮嶋駅の所在地を船橋市海神付近もしくは津田沼・鷺沼付近 とする。

海神にある遺跡を見て損は全くない。行って見よう。

 

 

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古代道に関連付けられるのはせいぜい古墳時代くらいまでではなかろうか。数千年前の縄文時代はちょっと古すぎる。
しかし、そのことは別にして良かった。

1 遺跡自体は屋外にあって無料で見学できる。

しかも埋め戻しをせずに発掘時に近い状態で見学できるよう工夫している。表面処理をどうやっているのかそのノウハウを他の自治体に伝授してもらいたいものだ。

 

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2 博物館は有料、といっても100円ちょっとだが、それをはるかに超える価値を有する。 

壁に掛ける陳列は宇治平等院で見られる手法。先進的に思う。

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3 目玉は男女合体の遺骨か。

  別途

4 ものを燃やす炉穴のサンプルが圧巻

  発見は学術的にも価値の高いものらしい。

  7000年、8000年前の人がこんなに高度の工夫ができているとは。

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模型を見て思ったのが10年くらい前か、田舎暮らし、小屋暮らしでやたらにはやったロケットストーブの原理と近いこと。

下の穴に燃料を水平に突っ込み、奥に竪穴をあけ上昇気流で一気に燃焼させるもの。

ロケットストーブは確かアメリカの誰かさんの考案とか言っていたけど、縄文人も実施していたということではないのかな。

とにかく見どころ満載。

解説文も勉強になるし、もう一度行きたくなる博物館は私にとっても珍しい。

 

 

 

古代東海道 下総国㉕ 孝標の娘はどの道で現船橋市域を横切ったのか

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この本、書名の印象だとご当地散歩本に思えるが、中を読むととんでもない。

深く、広い。

290頁 2014年初版  ろん書房出版

編著者の滝口昭二氏は元船橋市の公立学校校長で郷土歴史地理研究者。

市川市国府台について和洋女子大院生が書いたものがあるが如何せん人生のキャリアが違い叶わない。

(両書とも良書ではあるが。)

とにかく船橋の歴史・地理について大変に参考になった。当方も記事変更を迫られることに。

 

船橋の中心、本町通りは1614年に開かれた東金街道。したがって十分に古い歴史を持つが古代の官道にはなりえない。

船橋競馬場駅の旧名は「花輪」。その手前の房総往還につながる踏切は「花輪の大踏切」という。

 

(再掲)

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 そこから踏切を渡らないで海神陸橋まで1943年にバイパスとして建設された道路が現国道14号線千葉街道

したがってこの2線は使えない。

では、菅原孝標の娘が「くろと」から「まつ里のわたり」へ行くのに横切った船橋の道はどこか。

本は「8 旧上總道をゆく」との項目を立てて諸説を案内する。

 (注 東京・市川からの進行としているので本ブログとは逆になる)

1説 中山から西船の台地を通り、海神に至り、そこから夏見の入り江を避けて夏見に回り、今の市立船橋高校のあたりから台地に上がって東船橋道祖神社‣茂侶浅間神社あたりを経由して再び海岸沿いの道を行った。

 

2説 現在の国道14号線沿いに来て海老川河口を船で渡り再び海岸沿いに歩いた。

注)東金街道ができるまで海老川の川幅は50m以上、中世では200m以上だった。

3説 西向き地蔵からは船橋砂州の北側に回り、「神明之御町」を通って海老川を船の橋で渡り、船橋大神宮の西門あたりから南に行って海岸沿いに行った。

 

4説(著者の新たな提言) 

 西向き地蔵から漁師町を通り大神宮の境内を通り、宮内から浅間神社に抜ける道

 

筆者の掲げるルート図と理由

その前にこれを再掲

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(文献引用46頁)

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著者の理由付け

・かなり長い間この地方の主要道路であったはず。今はかすかな細い道に代わっているがその痕跡を拾いつなげることでその道を表すことができるのではないか。

 例えば

  大神宮東側のかって大神宮の社家にかかわる人が住んでいた宮内集落内に残る「上

  総道」の伝承、

  東船橋南東部の「下道」と「郡境」という小字が伝える道の痕跡

  これらをつなぐようにある砂丘上の墓地や石祠、中世の海岸線との関連

 注)群境(こおりさかい)と呼ばれる小字があった。国道296号の東側が千葉郡、西側が

   葛飾郡

あまりに内陸によるのもいかがなものかと思うので原則海岸沿いの4説を採ろうかと思う。

古代東海道 下総国㉔v3 千葉街道を進む。 千葉市花見川、幕張から習志野市、船橋市へ

10.6追記

この項、遺跡は多くはないかに見えるがが距離があり、なかなか一気に書ききれない。随時補充していく。

話は脱線するが、先日総裁選があり、首班指名、組閣と続いた。その中で話題を呼んでいるのが当選3回目という若輩議員が大臣に任命されたことだ。

このK議員は大学ボート部主将で、身長が186センチあり、開成高校、T大法学部、財務省、ハーバードと進み、性格もよく、勉強もしていると絶賛中。

 

(開成をオーインに、財務省厚労省に変えれば「このハゲー」と年上の男性部下を罵倒し小突き、書類送検された女性議員に似た経歴だ)

 

加山雄三主演の若大将シリーズを越えるような感じ。レジ袋シンジロウ君の賞味期限は終了してしまったようだ。

 なんでこんなことを書いたのかというと小林議員の選挙区が千葉2区といって丁度千葉市花見川区習志野市らしくこの下総国㉔に重なるらしいので。

小林議員や選挙区のことなど全く知らなかった。それが組閣ひとつでこうも話題になるとは。

 

 

まずは地図概観から。

花見川右岸(西側)から浜田川へ向かう。

 

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千葉市花見川区幕張町6丁目→5丁目→4丁目、3丁目、2丁目、1丁目と進み浜田川を越える。

    5丁目

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1丁目
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浜田川を越えて町名は幕張本郷となり、現14千葉街道に合流する。その先は京葉道路幕張ICとなる。

 

幕張ICを越えると習志野市となるが、自転車に乗った若いちょんまげ姿の男性が目に入

いった。

?と思ったが後で地図を見て納得。こんなところに相撲部屋、阿武松部屋があったとは。両国近辺の不動産はお高いからね。

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幕張ICを越えると進行右側は習志野市鷺沼(さぎぬま)、左(海より)は袖ケ浦

 

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<浮嶋駅(千葉郡)の所在地>

山路直充氏は浮嶋駅(千葉郡)の所在地について次のように推定している。

船橋市海神付近、もしくは津田沼・鷺沼付近 

  日本古代道路辞典113

 

確かに鷺沼3、鷺沼1と、寺社や城址が散見される。

鷺沼城址公園は鷺沼古墳群の場所でもある。

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今回、立ち寄っていないがウイキペディアにかなり詳細の記事が載っている。

(以下引用)

千葉県習志野市役所から200mほど南にある標高約18mの八剣台と呼ばれる菊田川河谷左岸の下総台地上の「鷺沼城址公園」内に、前方後円墳のA号墳、隣接するB号墳の石棺が保存されている。

A号墳は前方部を南西に向けた、帆立貝形古墳やいちじく型古墳の様に前方部が小さい前方後円墳で、前方部南西端を除いて周溝があったことが確認されている。全長約25mの墳丘上には「源太様小祠」と呼ばれるが祀られていて、通称「源太塚」とも呼ばれる。1966年(昭和41年)の調査で下総型円筒埴輪が出土したことから6世紀後半の築造と推定されている。

南東すぐにあるB号墳もA号墳よりやや小さい、同じ向き・形状の前方後円墳であるが、墳丘は原型をとどめていない。A号墳の様に埴輪は出土しておらず、6世紀末の築造と推定されている。くびれ部付近で2基の石棺が発見されたが南よりの1基は既に破壊されていた。もう1基の石棺は長さ約2m、幅約0.8m、深さ約0.7mの大きさで砂岩凝灰岩を金属製工具で加工して造られている。中や周囲からは成年男性2体分の人骨片や直刀破片、土玉、鉄鏃刀子などの副葬品が発見された。現在は覆屋を設けられているが、常時外からの見学が可能である。

(以上引用)

津田沼の先は谷津である。

 

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浮嶋駅(千葉郡)の所在地について前述のとおり山路直充氏は船橋市海神付近、もしくは津田沼・鷺沼と推定しているが、武部健一はここ習志野市谷津1か所を想定地として掲げている。

 完全走破 古代の道 84頁

現在、谷津は谷津干潟というバードサンクチュアリで有名であるがかっては東京に近い海水浴場として有名な遊園地だった。

 

 

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谷津の先296号道路を越えるとはや船橋市となる。

なお、京成谷津駅と隣の船橋競馬場駅の中間あたりから船橋大神宮につながる房総往還路がうかがえ、歴史の色濃い船橋本町通りつながるのでこのルートを選択することにした。

 

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注)船橋大神宮(正式には「意富比(おおひ)神社」)

 日本三代実録に「863年(貞観5)5月下総の国従五位下意富比(おおひ)神に正五位下を授ける」とあるそうだ。

 927年に編集された延喜式の神名一覧に全国2861社の(延喜式)内社の一つとして「下総国葛飾郡意富比(おおひ)神社」と記録されている。

ちなみに千葉県域の式内社は20社とのこと

参考 船橋の歴史散歩(宮原武夫)

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神社でみたポスター。ニューウエーブか。

 

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船橋大神宮のところで左折し、海老川橋をわたって本町通りへ。

 

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船橋地名発祥の地とある。        

            

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海老川橋にある由緒書き。

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<本町通り>

 鉄道の船橋駅(JRと京成)と千葉街道に挟まれた本町通りはいかにも老舗という感じのお店が多く、魅力を感じる。ここで江戸時代に関するものであるが本町通りの全体像をわかりやすく教えてくれる市の案内板をみつけた。

やはり歩かないとダメ見たい。

写真を撮ったので紹介しよう。

これを参考に古代道ならぬ近世、近・現代を偲ぶ街歩きとなった。

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江戸時代ですらすぐそばまで海浜が迫っていたようだ。

東京、神奈川で耳にする何とか「御殿」というゾーンもあったとは。

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ビルに挟まれた厳島神社アメリカの名作童話「小さな家」みたいだ。

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道路に面するビルの中に船橋市立中央図書館があった。珍しいので入ってみた。

                    

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 買い物のついでに図書館に入れるのは便利かもしれないが私としては入り口に余裕のある方がふさわしいと思ってしまう。

 

端末で自己の名を入れてみると6冊あった。ありがとうございます。

郷土資料コーナーを見るなど暫時見学。

当然ながら飛の台遺跡の報告書も並んでいる。

 

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<西向き地蔵尊

 この通りで気になる箇所が一か所あった。

西向き地蔵尊だ。西向きにどういう意味があるのか。

1万分の一程度の詳しい地図でないと記載されていない。意識しないと通り過ぎてしまう。

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確かに右側=西向き=江戸方面を向いている。

 

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進むとだんだん外れとなり、日枝神社があった。

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 日枝神社の少し先で町名が本町から海神(一丁目)に変る。

JR総武線を陸橋で越えると房総往還と千葉街道も合一するが、合一する直前千葉街道から見えるのがこの式内元宮入り日神社の看板。

階段下に神社らしき建物が見える。

なんだろう。

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どなたも同じように考えるらしく検索結果を教えてくれるブログが多い。

前述の船橋大神宮(正式には「意富比(おおひ)神社」がかってあった所らしい。

紀州熊野神社もそうだけど寺社の移転は決して稀有なことではないようだ。

その理由は狭さか、水害か。

そういえばこの橋を渡る前に見た道路の海抜はとても低かった。

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航空写真で見ると二つの大通りと鉄道に囲まれた三角形内にあることがわかる。

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古代東海道 下総国㉓ 花見川浪花橋西側から南下して千葉街道(旧房総往還)へ

 

直道(なおみち)遺跡周辺には近時発掘され古い文献には触れられていない遺跡が多いが

探索しながらの進行も少々疲れた。

ここらへんで海縁の千葉街道に出てもよいだろう。

 

さざれ幼稚園の脇を通り、京成電車の踏切を渡ると古い街道(旧房総往還)に出る。

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房総往還(旧千葉街道)を進む

 

そうだ。例によって「地図で見る東日本の古代」を見て見よう。

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綿打池の右側を北上して行くのは同じだが異なる点は

① 花見川の先、まだ頑張って千葉街道に降りずに幕張近辺まで直進性を追求していること

② JRは稲毛の先東側に婉曲するところがあるが(私は鉄道東側を歩いた)、そこではあえて線路より西側を比定して直進性を維持している。

惹かれるところはあるが現在につながるような道路痕跡はうかがえない。

と思ったが、下記地図赤丸近辺は検見川送信所というこれまた近現代の遺跡になるような大きな公的施設があった場所であり、かなり前から区画整理が行われているようなので付近では明治期以降かなり大規模な土木工事があったはずでその影響かもしれない。

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そのあたりをブラックボックスとして一部房総往還経由で検見川神社までを直線で

結べばなんとかなりそうでもある。

東京湾沿岸しかも東京に近づくほどそういう箇所が多いのであろう。

 

 

古代東海道 下総国㉒ 花見川流域と愛宕山古墳その2 徒歩、古老、地元の情報発信誌

不明点が多いので再度出かけることにした。

一般的文献で不明のものの探索には①徒歩による五感的推測 ②人に聞く(古老) ③ ②を集約したような郷土史家による情報のまとめがあれば最高に思う。

今回曲がりなりにも整った。

 

刑事は、事案の真相解明のためには犯行現場を何度も訪れることが必要という。

土地の探索も全く同じに思う。

そしてさらに現場をゆっくり、じっくり歩くことが必要に思う。

スピードが速いとあるものも見えなくなる。

自動車よりオートバイ、オートバイより自転車、自転車より歩き。

 

一時、街道ブームがあり各街道について著名人にエッセイ的なものを書かせる企画があった。近世東海道については特に多い。

委嘱を受けた作家先生は既存の文献に目を通すだけ。良くてハイヤーをチャーターしてざっと現代東海道を垣間見る程度。そんなチャチャッとした取材で得られるものはおのずから限界だらけと思う。

 

二度目は京成検見川駅を降りて歩いた。

花見川にかかる浪花橋を渡る。

とりあえず堤防を下る。それにしても低い。検見川低地という言葉が実感できる。

ひょっとしてここら辺は天井川

川に沿って北上し丘の周囲に出たいが、家が立ち並び、空き地の進入できそうなところ

には「私有地! 立ち入り禁止」の立て看板が。

一か所入れそうなところがあったので進んだ。

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と、「何か御用ですか」と不審者に思ったらしく年配男性(90代?)から不審尋問。

事情を説明し、この丘はもしかして愛宕山古墳ではないかと思って」というと答えてくれた。

先方も聞かれて悪い気はしないらしくかなり話が弾んだ。以下一部を紹介。

 

・この丘は昔の大久保城というお城の物見(櫓台)があったところ。古墳の話は聞いたことがない。

 

この丘は川の対岸から続く段丘の先端で花見川(人工河川)の整備の過程(昭和25年から昭和44年)で掘削され残った部分!

・掘削した土は幕張メッセ埋め立て工事の上層に使われた。

さらに話は戦争のことにもおよび,氏の半生を聞くこととなったが、受け答えに先日千葉公園内での旧陸軍の戦跡図を見ていたことがずいぶんと役に立った。

 

昭和19年東京から当地に引っ越してきた。(もともと親の代から花見川にかかる台地上に農地を持っていた模様。)

 それらはお上に騙されるように召し上げられた(といっても今なお広大な敷地を保有している様子)

・兄は空襲?で死んだが民間人だったので何の補償もない。軍属ですら手厚い保護(軍人恩給)をもらえたのに理不尽。

・花園中のところには千葉工業高校があったが、屋根の形状が工場か兵舎に思われたらしく空襲を受けた。

・戦車隊があり戦車から対空砲撃を加えたが届かず弓を引くように弾は落下するだけだった。

・千葉は軍の基地が最も多かった。あの関東軍の本体は千葉だ。

・「塚本○○」を知っているか?と聞かれたので千葉駅前のヨドバシカメラが入っている大きなビル「塚本総業」のことかというとそうだとの返事。

 作ったのは塚本将軍という元職業軍人とのこと。その将軍について何かを言いたげだった。

 ウイキペディアで検索すると陸士出身の塚本素山(清)という人が出てくる。小佐野とか藤原弘達言論弾圧とか懐かしい文言が並んでいる。

 

猿田神社に行って見たいというと、あの曲がりくねったかっての花見川を超えた先の道に入ってすぐと教えてくれた。

 

 

これが蓋をした旧花見川の一部か。歩かないとわからないかも。

 

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上り坂の奥に小さな祠が見えている。

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これか。お金持ちのお屋敷の片隅にありそうなレベル。

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海抜は6.5m

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もう一つ愛宕山神社を拝見したいが地図を見てもわからない。通りすがりの男性に聞いてあの電柱を右折してすぐと教えてもらった。

わからないところも人に聞くとすぐわかる。樋口一葉旧宅もそうだった。

 

 

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さて、後日実に優れた冊子を目にすることとなった。

「はなぞの 周辺80年」という簡易製本的なもの

 

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「花見川 地元を学ぶ会」が2018年に発行したものだが他に書かれていない地区80年の

歴史を書いている。

80年より前を考えるにも実に有用。少し紹介しよう。

まず当方が気にした丘当たりのことについて。

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S字型の流れを直線にし、西に残った丘陵部が古墳ではと誤解した個所のようだ。

この影響で行政的に川の西側もいまだに東側の飛び地となっている。

丘の通称は烏山(からすやま)とのこと。

なお川の掘削は印旛沼関連の公共工事として江戸時代から行われていたがすべて失敗

し、戦後にまた再開して昭和40年代にようやく完成している。

 

付近の小字名地図が掲載されていたが、これは助かる。

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大久保城物見址の地点の小字は大久保。

花見川東側、東大運動場の南西にあって重要な遺跡とされている直道遺跡は官道らしい

直道だからではなく字名が直道だから。

その右側の横塚遺跡(現公民館)も小字からのネーミングとわかる。

 

図書館はどこも書籍にあふれ、寄贈の申し込みをお断りするのに苦労しているらしいが

地域資料については別次元。ほかにない資料だから素人のレジュメ程度でも収蔵すると

ころが少なくない。

古代東海道 下総国㉑ 花見川流域と愛宕山古墳

花見川西側に見える丘がどこか怪しく思える。

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そばに行ってみた。

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なんでここの一角だけ、ぽっかり空き地になっているのだろう。

何らかの理由で公有地にして将来の調査に備えているのだろうか。

通りすがりの女性に聞いてみたが「知らない」とのこと。そりゃそうだろう。

後日、調べた。

ある遺跡調査報告書に参考としてごく手短に愛宕山古墳なる言葉が出ていた。

 

ネットで何か情報がないかと検索してみるとちらほら出てくる。年配の地域探訪グルー

プのものだ。近くに猿田神社と愛宕神社という神社があり、その一つ愛宕神社愛宕山

古墳上に立地するというものだ。

愛宕神社は普通の地図には載っておらず、住宅地図にかろうじて小さく載っていた。

グーグルだと次のようになる。

 

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しかし、再度調べると県の遺跡資料にはないが千葉市の資料にはあった。以下引用する。

 

4-13表 千葉市内の古墳及び古墳群地名表

 

 №5 遺跡名 愛宕山古墳

    所在地 幕張町6丁目字速塚 (猿田神社南方100m)

    立地・標高  砂丘上 6m

    形態  方墳

    所属時期 後期

    主体部  載石石室

    主要遺物 直刀、鉄鏃、金環

    備考   昭和48 市教委確認

愛宕神社は猿田神社の北方100mくらいであり、致命的に思われる。しかし南方100mが川西側に見た丘か不明だ。標高6m以上はありそうだし,住居表示も異なるようだし。

 もう一度行って見ないと。

(続く)

 

古代東海道 下総国⓴v2 千葉公園から花見川へ

 

この信号の先に見える本敬寺常光閣というあまり寺らしからぬ雰囲気の先が作草部駅前信号だ。

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房総往還ルートをやや斜めに外れて進む。写真では直進。

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ここら辺から学校キャンパス街となる。

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下の写真左ビル後ろに県立千葉東高、右に千葉経済高

直近の話になるが、先日61歳の若さで亡くなったキリンの社長さんは県立千葉東高→早大出身とのこと。記事で読んだまだご存命の父親の話に感銘。ご冥福を祈る。

 

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突き当りは千葉経済大・短大

 

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左折すると千葉神社の隣にあって空襲で焼かれ、移転してきた大日寺があった。

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なかなか個性があるデザインで好感を抱く。

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少しお邪魔をした。千葉氏累代の墓碑

移転後とはいえ、ずっしりとした歴史の重みを感じる。

 

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門の前をまっすぐ進むと大学通りという広い道に出る。

大学とはもちろん千葉大学。なぜか一部は東大工学部となっている。

県庁に近い亥鼻町は医学部、薬学部、病院など医療系キャンパスとなっており、こちら西千葉駅前は教育、文、法経、工、理学部、付属中高がある。

相当に広い。

大学数の少ない地域における国立大学のステイタスを感じる。千葉市近辺の開業医、中小病院は千葉大学医学部出身者が多く他大学出身者は肩身が狭いもよう。

 

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やっと千葉大学キャンパスの北端に出た。

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この信号右側手前は敬愛大学のキャンパスとなる。

左折すれば総武本線千葉街道京葉線にクロスするがそうしないで直進する。

なお、このあたりの地番は千葉市稲毛区黒砂台3丁目。

 

放射線医学総合研究所という大きな敷地を持つ組織が右手にある。

重粒子治療センターがあり、日本でも少ない高度の放射線治療がなされる。

ちょっと前になるが東海村原発で痛ましい事故にあった作業員氏はここに運ばれたのではなかったか。

入り口の表示を見ると種々組織が入っている。改編もあったのか。

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進むと、イオンがあり、JR稲毛駅東側となる。

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左折すればJRと京成の稲毛駅を越え、浅間神社の脇を通って千葉街道(国道14号・357号)に出る。

面倒なことを考えずにただ道なりに東京へ出たいならそうなる。

 

そうはせず、JRに並行する形で小仲台坂道を進み高速東関東自動車道にぶつかる。

(小仲台8丁目信号)

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しかし、超えた先の道が混とんとし、はっきりしない。

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無理もない。鉄道、高速道路、一般道路の敷設で古い地形などずたずた。

こういう場合、というか地域は本来は望ましくないがA地点、 B地点を結んだラインを想定するのもやむを得ないと考える。

適当にさまよって総武線に沿う形で小中台町から花園町に入り花園5丁目に至る。

(わかりにくいのは使用する漢字もそう。小中台町というとき「中」は人偏なしだが小仲台8とかいうときは人偏がついている。

道路の真ん中が桜並木となっている幅広い道に出た。

考えられない雰囲気の良さ。

鉄道跡、小川・下水を埋め立てたり覆った場合に見られるがそんな理由はなさそうだし、なんでだろうと不可思議。

 

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花園中学校前の交差点。学校の北側(写真奥)は小学校、東大の諸施設が続き、周囲には相当数の遺跡が出現しているがこれについては後述。

 

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桜の道を進み、このあたりの地形が一目瞭然の箇所に出た。

 

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降りて擁壁を見るとずいぶんと高台であることがわかる。

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縄文、弥生、古墳、奈良と昔の人は海や川に近い高台・平坦・日当たりの良い土地が大

好き。

現代人の価値観と全く同じだが現代の庶民はなかなか住めない。

かなりの傾斜の坂を下るとすぐに花見川に出る。

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橋の南側にはJR総武線が走る。

昔は当然海だっただろう。

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*正直、これはという道路の痕跡が見つけられないので中央区椿森から花見川区のここら辺を結ぶ線で考えてきた。より海に近い南側、現鉄道に近かったのかもしれない。

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古代東海道 下総国⓳ 経路途中だが近・現代のことも考えたくなる(千葉公園)

更級日記の道なのだから古代当時のことだけを考えればよいのかもしれない。

 しかし、ここ千葉公園JR西千葉駅の東側や先の話になるが市川市国府台あたりについ

ては明治以降、近代・現代のことを考えたくなる。

 

千葉公園国府台も明治期から日本陸軍の大基地となりそれが終戦敗戦でなくなるわけであるが、そもそも江戸期幕藩体制の下での土地管理・利用体制が明治維新でどのようにして日本軍の土地になり、終戦後どのようにして現代の管理・利用体制になったのか興味深い。

 

 

明治維新、太平洋戦争という大きな社会変動で当該土地の利用が変わってくる理由は大和政権の誕生、律令制の確立、そしてその弛緩という社会変動発生時にも当然に生じているはずで、それを考える際のヒントになるのではないか。

 

両地域とも現在、多くのスペースは公園と学校になっている。

軍の司令組織はなくなったが病院は名前を変えて国立病院として残っている。

 

上総・下総国で宗教組織、国分寺跡は割とはっきりしていたがこれに比べて国庁跡は

はっきりしない。下総は近年明確になりつつあるが。

 

さて、千葉公園に戻るが、次の鉄道第一連隊演習用橋脚前にある説明文がわかりやすい。

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陸軍施設の総面積は462ヘクタールというからけた外れの広さだ。

 

地図だと次のとおり

 

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古代東海道 下総国⓲ 千葉駅近辺から稲毛方面へ

 千葉市中央区要町から同区椿森へ

 千葉市民会館にぶつかった後、線路の北側に行くには右側だと東千葉駅にまたがる椿森陸橋を通ることになる。少し大回りだし登りなので左折して逆に線路の下を通る道にした。

 

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このまままっすぐ行くとJR千葉駅

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右折して線路の下を通る。

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アンダーパスを経てすぐに千葉公園入口が左に見えてくる。

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かなり広く、綿打池は季節になると有名な大賀ハスを見に来る人でにぎわう。

オオガハスについては考古学上問題のあることを最近知ったばかりであるが、検見川の東大グランドあたりで触れたい。

 

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なお、千葉公園はかって車両基地があったところで軍との関連性も強く、近代史上もポイントとなる地点らしい。スーツ旅行さんは言及していなかったが少し残念。

さて、モノレール()の下、旧房総往還をたどるしかないのだろうか。

下の地図で赤いルートがそれ。

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しかし、引っかかる。

天台、穴川と進み(126号)、小仲台4丁目園生十字路で急角度で左折して稲毛駅に向かう(133号、134号)必然性がどこにあるのかわからない。

有名な浅間神社脇を通って直ぐに千葉街道に出られるのは近現代史的には便利だろうが昔にはそんな意義があるとは思えない。

浅間神社自体かってはより内部にあったらしいし)。

同じ台地上にあり通行の障害となるような絶壁やくぼ地がないのならもう少し直進性を

考慮してもよいのではなかろうか。

 そう思って上の地図で青色ルートを考えてみた。

更級日記上の叙述に関連する「黒砂」台3丁目を通ることになる。

より俯瞰的に言うとまだ海まじかの千葉街道に降りずにもう少し現JR総武線東側を進むということになる。

この方向の先には直道遺跡など近時多数の遺跡が発見されている東大検見川運動場や花見川流域が待っている。

 

参考:下は千葉市の資料(後日紹介)

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古代東海道 下総国⓱ 千葉市から先の探索で悩む―四国遍路との対比

 

ネット特にユーチューブやブログに旧街道を歩くというものが見受けられる。

特に東海道については正月の大学箱根駅伝があるし、江戸時代の戯作があるし、53次の浮世絵があるし、ということで特に目立つ。

 

歩くというのは一種何とかハイになる中毒性もあり、その最終ステージともいえる四国歩き遍路ではフランス→スペイン修道路を歩いてきたとか、前、東海道を歩いたという人も見受けられた。

四国歩き遍路を通し(1200キロ連続)で行うとリュック(軽くして8キロ前後)を背負って平均45日は掛かるのでかなりの覚悟が必要となる。

 *作家車谷長吉夫妻は60日以上かかったらしい。

覚悟というのは体力、長期間職を離れること(現役では無理。失業者も雇用保険の手続きがあるから中断せざるを得ない)、装備代+1泊6500円×45泊+四国までの往復旅費で何十万かはかかること。

 しかし、スペインへの遍路道(私は行ったことがないが数回行っている友人がいる)や四国遍路はとてもイージーな面もある。

それはルートや泊まる施設の情報が十全なこと。四国の場合、定番の遍路宿リスト付きルート地図がありそれさえあれば悩むことはない。日々歩いてその日の調子で今晩泊まるところに電話をかければ済む。

 登山の山小屋ほどではないが私は41泊中断られたのは3泊ぐらいだった。また四国では遍路客は全国、外国からくる大切なお客様で、おもてなしの気風が強いし、ルートも電柱やガイドレールに符合が記されているので地図を見る必要は少ないのが実態だ。

 

もし近世の東海道を歩くあるいは車やバイクで行くというのなら時折、一部旧道を歩く程度で済みルートに悩むことはほとんどないだろう。

距離もさほどのことがなく、おつむも筋肉にすればよいだけ。中学生から高齢者までよい目標設定になると思う。

 

 しかし、1020年ころの東海道はというとほとんどわかっていない。だからこそ学問の対象になり、ごく一部古代の官道らしきものが発掘されるとそれだけでニュースになる状況だ。

結局、歴史・地理学、考古学の知見を門前の小僧的に聞きかじってそれに学者・研究者でないという特権的?好位置に甘えて大胆な発想で決めるしかないと思う。

 

 さて、千葉市の中心千葉駅あたりから先、稲毛・検見川あたりまでをどう考えるかであるが、ここら辺に土地勘のない方、例えば関西の日本文学の先生なら、アバウトに海に沿って=国道14号(千葉街道)沿いに東京へ向かえばいいのでしょうと思うかもしれない。

 

 しかし少し土地勘のある人なら、そして道路の歴史を知る人ならそうはいかない。

何しろ千葉市登戸(のぶと)から稲毛までの千葉街道ルートは明治19年(1886年)に千葉監獄の囚人を使ってやっと出来たもの。

だから江戸期の房総往還も大きく東に迂回している。

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ここら辺のところの状況については以前紹介した武田宗久氏の作図を拝見するとわかるような気がする。

 文献 千葉市史資料編1 240頁 5-2図   

    千葉市街周辺における地形上の変遷と郷名

 

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