古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

更級日記より130年前に日本人男性による国際的紀行文が書かれていた。

 更級日記のグレートジャーニのフォローを始める前にこう書くのもなんですが、負けず劣らず、というか見方によってはそれ以上に意義深い紀行文がありました。何しろ海外版ですし、夢見る少女ではない成人男性の手になるので違いがあります。

以下紹介します。

 

   「円仁慈覚大師の足跡を訪ねて」(阿南・バージニア・史代著)

 

 最後の遣唐使の一員として唐に渡った僧円仁(延暦寺3代座主になった人)が著した巡礼記「入唐求法巡礼行記(838年~847年)」に感動して阿南・バージニア・史代さんが書いたのが上記の本です。

 

これほど円仁の巡礼行記が価値ある重要なものであるとは知りませんでした。

更にというかその前に驚くのはそもそも米国白人系女子大生だったバージニアさんが円仁のことを知ったのもあの元駐日米国大使ライシャワー氏が1955年に英語で著した翻訳著作がきっかけとのこと。

 どんなに優れたものでも誰かが英語にしてくれないと世界基準の知見の舞台には登壇できないようで改めてライシャワー氏の学識・学恩には感謝すべきと思う。

 阿南・バージニアさんは言う。

 三蔵法師による7世紀のインドへの求法の旅「大唐西域記」、あるいは13世紀のマルコポーロの東方見聞録よりはるかに信頼性が高いと。

マルコポーロは文盲だったし、三蔵法師の方も大部分は後に帰国後弟子に口述筆記させたものだが、円仁は旅と同時進行で日記を自ら書き続けたもの。

 

 実際、円仁は9年という長期にわたって滞在し、自分の足で長距離を歩いており

「その驚くべき詳細な記録は唐時代の生活の集大成を成している」ということがよくわかるし、「王朝史が欠落している庶民生活を活写している」ものになっている。

 

 余談になるが著者は円仁が1日大体32キロ歩き、1日に46キロという驚くべき苦行の日もあったと感慨深げに書いているがこれだけは私の四国遍路の歩行記録とほぼ同じで、人間のやることは1200年前と変わるところはないと知り、少し嬉しい。

 

円仁に戻るが当時、現代の毛沢東による文化革命にも似た凄まじい廃仏毀釈運動もあったそうだが円仁はその目撃者としての貴重な記録も残している。

いきいきとした円仁の記録は鴨長明の災害記録にも似ているところがあってその点でも気を惹かれる。

当時の日本人エリートの文化度・言語表現能力はとてつもなく高かったことがうかがえる。

 

 俗っぽいことになるが著者の夫は元駐中国日本大使でチャイナスクールの重鎮阿南惟茂氏(亡命希望者を追い返した人)、その父はあの軍人!と付随的興味もとめどもない。

夫がこういう人であったことが「足跡を訪ねる」ことにどれほど有利に働いたかも想像に難くはない。*

 

 それにしてもキャンベルさんがいうように明治に至る日本の膨大な文字文化遺産が普通の日本人では理解・享受できないものになってしまっていて嘆かわしい。空海展をみてもなにやら漢字が書いてあるなあ程度。正岡子規だって多くは漢文だらけで英語の方で何とかフォローする始末。

 外国語的感覚で習得する必要があるのかも。

 

*「父は終戦時に陸軍大臣を務めていた阿南惟幾で6人兄弟の末子である。叔父に宮城事件に関係した当時軍務課内務班長の竹下正彦中佐、義姉に講談社前社長の野間佐和子がいる。(ウイキペディアより) 」

 

円仁、阿南・バージニア、その夫、夫の親族といろいろな意味で重畳的に興味がわく。