古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

そうだ東京へ行こう⑳~㉓ 芸術新潮、目白聖公会、徳川ビレッジ、終章

⑳「細川家 美と戦いの700年」

 

「細川家 美と戦いの700年」という特集があった雑誌・芸術新潮は反響がよかったのだろう。再編集、増補されて単行本になっていた(「細川家の700年 永青文庫の至宝」新潮社1700円)。

    

f:id:hen-un:20210321165606j:plain

 

これを踏まえてもう一度永青文庫の項を。

その本にはドキッとした細川護立侯と新橋の粋筋佐久間幸子さんのツーショット写真も再掲載されている。彼女と、孫、護熙さんとの会話を読むと佐久間さんが相当なレベルの美術愛好家であることがわかる。

能力とともに白洲正子さん同様殿様(護立侯)から良い指導を受けたからだろう。週刊誌的な興味から見始めても終わりには考えを改めることになる。

 また、内側にいた護熙さんからの飾り気のないストレートな話を聞ける点もこの本のいいところである。

共感するところも随分ある。

さて、護熙さんの生まれた上御殿と言われた建物(高台の洋館)は、今、和敬塾本館になっているが、正面玄関の方が雰囲気が伝わるのでその様子を。

f:id:hen-un:20210321165429j:plain

 

大きな池に船が浮かび、放し飼いの孔雀が何羽か庭を闊歩していたという下御殿は、文京区立新江戸川公園になっている。その入口と門の様子を。

  

f:id:hen-un:20210321165511j:plain

写真の上の方に見える高台のところに永青文庫がある。日中は両者間の門があいているので自由に行き来できる。

 

 

 永青文庫の資料は大別して、大名としての集積と護立氏の収集したものがあるが、もともと、すべてがそこにあるわけではなく、熊本大学付属図書館や慶応大学にも寄託等されて調査研究されている。

さらに、2008年4月には熊本県立美術館に永青文庫展示室がオープンして、そちらへの出品があり、また、海外への出品も増えているとのことである。

「開かれた美術館」を目指していることにかなうものであろうが、反面、至宝の展示を期待して永青文庫に行っても見当たらなくて残念ということも生ずることになる。

 他の小さめの美術館にも通じることであるが、運営する人はその点のバランスを考えたほうが。

 護熙さんの「保存にはそれを伝えようとする強い意志とともに,運が大事だということを思わずにはいられない。」のお考えに100%同感。

もし冷泉家が東京へ来ていたら関東大震災か東京空襲で数多くの国宝は消えていたと思う。

これに関連してもう一つの、「永青文庫のある目白台あたりは、日本のカトリックの総本山にあたるカテドラルがあるため爆撃をまぬがれた。」には複雑な気持ちが。

人権は世界共通の平等なものと言いながら爆撃する側と同じ宗教の施設には恩典を与え、そうでないものには容赦なく焼夷弾を投下するという論理、それって説明がつくのであろうか。単純に受け入れてよいものであろうか。

先日のイスラエルによるイスラム施設への爆撃に対するブッシュの賛意と通じるのではないか。

 

 

 №㉑ 目白聖公会

 

山手線内を少し出るが、目白駅の少し先の目白通り沿いに何とも言えない魅力ある教会がある。

f:id:hen-un:20210321165704j:plain

 

目白聖公会という。東京カテドラル、あれはあれでよいが、これはこれでよい。小さく古風で身近に感じ

られる分、こっちの方がいいかも。

このロマネスク様式の聖堂は1929年(昭和4年)に建立され、戦災も免れ!東京の聖公会の教会中戦前

からある唯一の建物とのこと。

ところで聖公会って何?基礎教養がないので少しだけ学習した。

一口で言うとローマ・カトリックプロテスタントの中間で世界で3番目に大きな伝統的キリスト教会と

のこと。

日本では11の教区に分かれ、その一つ東京教区には目白聖公会など33の教会といくつかの礼拝堂があ

るとのこと。

関係する有名な学校・組織として立教大学やあの聖路加国際病院があげられる。

教会のHPにはわかりやすいQ&Aが用意されているので関心ある人は読むといい。

(抄) キリスト教会は10世紀頃、大きく東西に分かれた。ローマを中心にした西方(カトリック=普遍的)教会とコンタンチノポリスを中心とした東方(オーソドクス=正統的)教会に。

 西方教会の伝統はローマ・カトリック聖公会プロテスタント諸教会に、東方教会ギリシャ正教会ロシア正教会コプト教会等に受け継がれている。

 

№㉒  徳川ビレッジ

 

この目白通りを中心とする小さな旅も終わりに近づいている。

これまで見てきたお屋敷、元は大名下屋敷というのが多かった。

では幕藩体制の幕府方、すなわち徳川家にゆかりの場所はないかというと、おおいにある。

尾張徳川邸が5000坪を超える規模で形を変えて息づいている。

徳川ビレッジといわれている箇所がそれである。

 

f:id:hen-un:20210321165757j:plain

外国人用の高級賃貸住宅、女子学生寮、名古屋の徳川美術館の運営本部、財団法人徳川黎明会などがある。

尾張は将軍こそ出なかったが、今現在も水戸徳川家ともども元気に活動しており、頑張っている。

江戸から明治、旧憲法下から現憲法下へと社会体制の激変の中での都心での存続、よほど優れた人がいたに違いない。

たとえ、養子でも、その家に入ることによってDNA的なものを受け継いだのではなかろうか。

ちょうど同じ地方出身の学生でも個性のある大学に入ると自然とそれぞれの大学カラーに染まるように。

HPでは随分と内容をオープンにしている。

若き22代当主義崇氏はHPで職歴その他の詳細な自己紹介を行い、写真まで公開している。なかなかできることではない。

プレッシャーに負けない能力・体力、プログラマーとしての実力を持っている。

   義崇のページ  http://www.tokugawa.org/~toku/faq.html

 

 

№㉓   終章

 

お茶の水から目白まで、22景にわたって歩き、紹介してきた本シリーズも、終わりを迎えることとなった。

お付き合いいただき、御礼そして感謝。

超高層ビルの集まるオフィス街でなく、ブランドショップの林立する老舗の街ではなく、若人が集まるファッショナブルな街でもなかった。

ただ、江戸時代からの一定の歴史があり、落ち着きのあるところをと選んだ。

これが平均的な庶民の棲む街かというと、もちろん違う。

が、たまにはいいだろう。京都へ何かを求め行く人は少なくない。

その何かに近いものがあるところと確信する。

f:id:hen-un:20210321170025j:plain

 

 

 

今回の写真には、狭い道、軽トラック、自転車、木枠のガラス戸、懐かしいお店も見える。

これは昭和30年代?、それとも北関東、JR高崎線の駅裏シャッター通り商店街か?

違う。目白台を下ったところの現在の町並みである(2008年12月撮影)。

 

(2021.3.21)