古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

上総の国⑫の5 菊間最終: 阿波能須神社と菊間藩陣屋跡

菊間でずいぶんかかったが、最後に気になるところを2か所。

其の1

菊間国と言ったら豪族→律令制下での国造と古代の話で終始するだけかと思っていたらなんと江戸末期から明治初期にかけて菊間藩の存在も話題になっている。

藩主は老中にもなっている水野氏の一族らしい。

菊間という地名の現役としての驚くほどの長寿に驚く。

菊間藩の陣屋跡が残っている。(後記)

 

 

其の2

安房にも関連するらしい阿波能須神社がある。

こちらか始めよう。

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左下ガスタンクの先二つ目の右折道路に入った。

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それにしてもせっかくの遺跡のそばに下水処理、県営団地、ガスタンクと景観を台無しにするようなものを作りすぎてはいませんか。景観どころかその工事自体でかなりの遺跡を削り取っているようだし。

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狭く極端に曲がりくねった一車線。歩きか自転車かせいぜい軽自動車でないと。

逆に言ってその道のありかたが古代の雰囲気を残してくれているが。

既出地図中星印をつけたお寺の北方と把握するといいかも。

狭い路地の目の前に突然現れた。

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どうみてもおかしい地形。周りを削り取らないとできないのではないか。

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この神社のいわれ等については紹介するブログも結構あるので参考になろう。

 

 菊間藩の陣屋跡

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wikipediaの下の説明では簡略に過ぎるが、まさか徳川家達や沼津藩の名前が出てくるとは思わなかった。

 

明治元年(1868年)5月、徳川家達駿府藩に移ったことにより、それまで沼津藩主であった水野忠敬の所領5万石のうち2万3700石が上知となったため、その代わりとして上総国市原郡菊間において2万3700石が与えられたことから菊間藩が立藩した。忠敬は新たな藩庁の建設や藩校の創設に尽力している。明治4年1871年)の廃藩置県で廃藩となった。

 郷土史家にかなうものなし → 菊間藩

場所は例によってわかりにくい。有名だからすぐわかると思うのは軽率!

冷泉家樋口一葉旧宅でも皆そうだった。

千光院のすぐそばと思う方がわかりやすい。

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陣屋跡は長方形の敷地。ただしこの石碑は誤解する人もいるようだが戦争で亡くなった人の慰霊塔。

 

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むしろ道路の反対側にある石碑の方に水野公の名前が出ている。

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 この藩主、短い期間だったが、かなりやる気のあった人らしく、また沼津から移住してそのまま住むようになった旧藩士も少なくないようだ。現菊間小学校は当初旧藩士が教師になったらしい

 それにしても150年はちょっと前のこと。顔を見知っている人の話があちこちから出てくる。末裔といってもさほど古くないが、実業家出身で著述家になっている人もいる。