古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総の国① どこで上総・下総の国境を超えるか V2

上総、下総両国の国境は村田川。

現在は市原市千葉市の境となっている。

古代の人はどこで川を渡ったのであろうか。

古代東海道のルートを房総往還に重ねる人は以下地図中のAとする。

 

 

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ただし川が変化しているので村田橋は埋まり、新村田橋に移っているが。

 A付近を拡大すると

 

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元の河川位置は公園となり、記念の案内板も。

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私は内陸のB付近ではないかと考える。


☆Bあたりとする理由

 囲碁・将棋ではないが、次の手、その次の手と考えていき、それを現在とるべき手(ルート)に還元・選択していくべきではないか。

 歩き旅は点と点を飛び渡るものではなく、連続した線を丁寧にたどるしかないもの。

ある箇所でどうしても甲地点を通過せねばならないならその前に歩くべき線は決まってってくる。それを乙とするなら、その前に歩くところも決まってくる(丙)。

 

 荷物を携えて長距離を歩くのは難儀そのもの。誰でもが、少しでも近道をしたい。

 平地での近道とは何か。最短距離は2点を結ぶ直線性しかないだろう。

高速道路のルート選定と古代の官道がなぜか近いというのもそんなところにあるのではと考えている。

 千葉の河曲駅(駅制)から直線性に留意しながらさかのぼりながら見ていくと自説では☆Cあたりまでくる。

そのあたりは律令制が敷かれる前、菊麻豪族の支配下でもあった地域である。古墳その他の遺跡も連続している。もともと人が往来し道ができていただろうし、そこを官道に指定してもおかしくないと考える。

 

 ただし村田川と浜野川にはさまれたBとC点の間、特に茂原街道(バイパス)北側は2021年現在でも低湿地というか荒れ地状態のところが多く、この箇所の確固たる旧道は認識できない。

( 更級日記に低湿地帯武蔵国の藪漕ぎ描写があるがここ千葉の風景を拡大したような状態であったのかもしれない。)

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その時々の改変が多い、一種刹那的利用がされていた道路だったかものかもしれない。

 次の地図に橋名は出ていないがとりあえず菊間古墳群の真下にある現「長妙寺橋」を渡って千葉市南生実町(みなみおゆみちょう)をめざして北上することに。

ただしわかりやすさの点からは左右の大きな古町橋や古市場橋を渡った方が得策かも。何しろ明治期まで橋はかったのだからこだわる必要はなかろう。

 

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