古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国 ⑨ 千葉寺と千葉寺廃寺 その1

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 国分寺より前に豪族に建立されたお寺があります。下総では現市川市真間町にある弘法寺(葛飾郡)と現千葉市千葉寺町(千葉郡)にある千葉寺(上の写真)です。

 しかし、ちょっと本を読んでいると千葉寺廃寺という文字も出てくるのです。

全国にある国分寺は大体当時の旧国分寺跡あるいはその付近に建っていますが国分寺廃寺という文言は使っていないようです。

市原市光善寺もそうですがなんで光善寺廃寺とか千葉寺廃寺というのでしょうか。

千葉寺に行ってみました。

まずはこの説明版。一般的なものでしょう。

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しかし入ってすぐのところに次の説明があり、驚愕です。

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東方約1キロの観音塚に建立されたものが1160年,雷火による火災で当地に移転したとあるのです、

 ならば709年から1160年の400年にわたって位置していた旧所こそが本来の千葉寺であり、それを千葉寺廃寺というべきことになります。

しかし、奇妙なことに現千葉寺を掘削調査したところ奈良、平安時代の遺物が出たというのです。

とすると A 1キロ離れたところにあったお寺

     B 現境内付近から発掘されて判明した古い奈良期の旧寺

     C 現千葉寺 

の3寺があることになってしまいます。AとBは年代的に重複しておかしいことになります。

篠崎四郎氏は著書(「房総の史跡散歩」昭和62年国書刊行会 72ページ)で次のように書かれています。

以下引用

 この地に上代寺院があったことは昭和の初め境内から奈良朝の布目瓦数かけらを拾得したことからもわかっていましたが、その後に國學院大學大場博士や近接の千葉一高武田教諭などの発掘調査により明確になりました。

 その鎧瓦と、のき瓦のあるものは筆者が昭和7年ころ市原市武士台で採集した遺瓦と同一紋様で、何らかの両地相関を思わせます。この二つの寺はおそらく大豪族の私寺(氏寺)のようなものでありましょう。

そして、大胆に結論付けている。

この奈良朝寺院が千葉寺と連結するものでなく、廃寺跡に後世密刹が造営されたとみるべきでありましょう。

篠崎氏の次の記述は考古学的理解とともに深い歴史学理解が必要なことも教えてくれます。

鎌倉時代から千葉氏の信仰するところによって盛大となりました。坂東33か所観音霊場に加えられるに至ったのも、鎌倉との親縁に由来するものでしょう。坂東札所の創設が西国33か所観音霊場にならって鎌倉時代におこったことはその配列順序を見れば一目瞭然です。すなわち第1番を鎌倉東部の古刹逗子杉本観音から始め、関八州名刹を一巡して最後を房州那古観音で札納めとし、船で三浦半島にわたって鎌倉へ帰着という仕組みになっています。

 

    (略)

本堂は米軍の空襲で焼失、その時に本尊の観音巨象も滅して今はなく、本堂前の大イチョウだけが来し方の歴史を物語っています。