古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国 ⓾ 千葉寺跡と青葉の森公園、荒久古墳、観音塚遺跡

「千葉県の資料」に「114千葉寺跡」という項目があり、更級日記への言及もあるので紹介させていただく。(この項著者 糸原 清氏)

 

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発掘調査すると必ずや?その報告書が出るようであるが、下手な市販の案内書よりずっと広く深い。

 この№114も千葉寺跡さらに近隣の公共工事に伴う報告書をベースに取りまとめたものであろう。

公共工事とは

・かってあった畜産試験場が筑波に移転し、そのあとに広大かつデラックスな青葉の森公園ができたこと(都立公園よりよっぽどお金をかけている)

・この公園周囲にはそれと合わせて高級な戸建て住宅街が住都公団によって開設されたこと

(付近に多い国立、公立、私立病院医師の居住希望が多いらしい)

・この先遠方に他の住宅団地ができることに合わせて鉄道も敷設されたこと

・関連して旧来の歴史ある街道の廃止や付け替えも行われたことなどである。

 

添付地図の公園と鉄道の間だけでも4か所の遺跡名がみられるが鉄道の先にはさらに多数の遺跡がある。

 

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項目「周辺の遺跡」(引用)

 千葉寺周辺は下総国千葉郡池田郷(いけだごう)に比定される。

 上総介(かずさのすけ)の任を終えて都に帰る菅原孝標孝標一行が,両総の境を越えて宿泊した「いかた」は当地周辺に比定される。

また、古東海道の河曲の駅家(かわわのうまや)を千葉寺北西約1.5キロの葭川(よしかわ)下流付近に比定する考えもある。

 千葉寺の南西約0.9キロの蘇我ひめ神社は延喜式内社に比定される。

 千葉寺の東約0.5キロの荒久古墳は一辺20mの終末期方墳、荒久古墳と接する荒久遺

跡や~遺跡では8世紀以降の方形墳墓群も発見されている。

 周辺の集落遺跡については~遺跡で弥生時代後期から古墳時代の集落跡が、

千葉寺谷を挟んだ南東約0.5キロの中野台遺跡や鷲谷津遺跡、観音塚遺跡などで古墳時代から平安時代の大規模な集落跡が発見されている。

 このほか、南東約1.3キロの大北遺跡からは堀立柱建物群とともに畿内産土師器などが大量に発見されている。千葉の国造 大私部直(おおきさいべのあたい)一族の居宅跡で、公的施設の補完的機能を果たした建物群と想定されている。

 

 糸原氏は最後に千葉寺について

「草創の地が谷向の観音塚周辺 という異説がある。

 草創伝承地周辺の観音塚遺跡からは、現在までのところ該当する遺構は発見されていない」と記している。