この本、書名の印象だとご当地散歩本に思えるが、中を読むととんでもない。
深く、広い。
290頁 2014年初版 ろん書房出版
編著者の滝口昭二氏は元船橋市の公立学校校長で郷土歴史地理研究者。
市川市国府台について和洋女子大院生が書いたものがあるが如何せん人生のキャリアが違い叶わない。
(両書とも良書ではあるが。)
とにかく船橋の歴史・地理について大変に参考になった。当方も記事変更を迫られることに。
・船橋の中心、本町通りは1614年に開かれた東金街道。したがって十分に古い歴史を持つが古代の官道にはなりえない。
・船橋競馬場駅の旧名は「花輪」。その手前の房総往還につながる踏切は「花輪の大踏切」という。
(再掲)
そこから踏切を渡らないで海神陸橋まで1943年にバイパスとして建設された道路が現国道14号線千葉街道。
したがってこの2線は使えない。
では、菅原孝標の娘が「くろと」から「まつ里のわたり」へ行くのに横切った船橋の道はどこか。
本は「8 旧上總道をゆく」との項目を立てて諸説を案内する。
(注 東京・市川からの進行としているので本ブログとは逆になる)
1説 中山から西船の台地を通り、海神に至り、そこから夏見の入り江を避けて夏見に回り、今の市立船橋高校のあたりから台地に上がって東船橋の道祖神社‣茂侶浅間神社あたりを経由して再び海岸沿いの道を行った。
2説 現在の国道14号線沿いに来て海老川河口を船で渡り再び海岸沿いに歩いた。
注)東金街道ができるまで海老川の川幅は50m以上、中世では200m以上だった。
3説 西向き地蔵からは船橋砂州の北側に回り、「神明之御町」を通って海老川を船の橋で渡り、船橋大神宮の西門あたりから南に行って海岸沿いに行った。
4説(著者の新たな提言)
西向き地蔵から漁師町を通り大神宮の境内を通り、宮内から浅間神社に抜ける道
筆者の掲げるルート図と理由
その前にこれを再掲
(文献引用46頁)
著者の理由付け
・かなり長い間この地方の主要道路であったはず。今はかすかな細い道に代わっているがその痕跡を拾いつなげることでその道を表すことができるのではないか。
例えば
大神宮東側のかって大神宮の社家にかかわる人が住んでいた宮内集落内に残る「上
総道」の伝承、
東船橋南東部の「下道」と「郡境」という小字が伝える道の痕跡
これらをつなぐようにある砂丘上の墓地や石祠、中世の海岸線との関連
注)群境(こおりさかい)と呼ばれる小字があった。国道296号の東側が千葉郡、西側が
あまりに内陸によるのもいかがなものかと思うので原則海岸沿いの4説を採ろうかと思う。