1919年(大正8年) - 耕地整理により鬼越、高石神の各一部より鬼高を新設、東葛飾郡中山村大字鬼高となったそうだ。 確かに京成沿線に鬼越、高石神の町名が見える。
14号千葉街道の南側(海側)というと古くは田んぼや塩田が多かっただろうけど昭和期は低地かつ工場や物流倉庫が多く、緑豊かな住宅地というわけにはいかず旧来の市民からは住みたいゾーンではなかった。 デズニーランドが来る前の浦安のイメージも同類だった。
昨今は水が出た東京西部の武蔵何とかのタワーマンション街と同じでマンションも増えてきてだいぶイメージも向上しているようだ。
鬼高遺跡があるところも前は工場地。上記地図は東京オリンピックの4年前昭和60年のものであるが再開発用地となっている。
杉原壮介氏により1937年(昭和12年)に行われた共立モスリン(株)中山工場内(現ニッケコルトンプラザ)での発掘調査で発見された。詳しくは以下の遺跡地にある説明を参照。
(現地は現在、住宅展示場の合間にある公園となっている。立派な石碑はあるが遺跡らしきもの、そしてその雰囲気は全く感じられず残念。古墳のように少しでもふくらみがあるものならいいのだけど。低地での遺跡という点では千葉市の神門遺跡と同様で数が少ない。)
昭和12年ころ、学生は学帽をかぶり、指導教師は泥の中でもネクタイをしていたことがうかがえる。この10年、ネクタイをしなくなったのが一般化し、風俗は激変。
遺跡の位置について「砂州」、「微高地」、「沖積低地」などの言葉が使われるが当方その区分けが判然としないので以下参考文献を引用する。
(千葉県の歴史 資料編考古2 821頁 木島桂子氏)
鬼高遺跡は現在の市川市市街地がのる市川砂州(さす)標高4~7mとその前方海岸寄りに位置する微高地(標高2m)との間の、平坦な沖積低地(標高約1.5m)に所在する。
もっとも近い下総台地の南端からは約1Km、市川砂州の前面からは約500m離れている。
出土遺物の中で最も重要とされるのは古墳時代後期に位置づけられる土器の一群であってそれらの土器は杉原氏により鬼高式土器と命名され、本遺跡はその標識遺跡であるとのこと。