古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総の国㉚の2 永井荷風と五木寛之氏

氏のエッセイの続きはこうだ(一部)

 のちに荷風が人に気づかれずに死んだニュースを聞いたとき、あの風の中に一人立っている老人のうしろ姿を思い出して、なんとなく胸がしめつけられるような哀しい気がしたものである。

 私は荷風の愛読者というほどは読んでいないし、その影響も受けたおぼえはないが、なぜかひどく忘れられない存在として残っている。

 

五木氏は対談、時折のNHKラジオ深夜便,エッセイといまだ健在、健筆。

 

婦人雑誌での佐藤愛子氏との対談がなかなか味わい深い。愛子氏98歳、寛之氏88歳と

か。二人とも頭ははっきりし、愛子氏はこの御年でいまだきれいと言える容貌だ。

多くの友人知人がなくなり寂しくなっていることを、乗っているバス(車両)の乗客が降

りてゆき、気が付くと乗客は自分一人になっていた、と表現する。

さすがの表現だと思う。90歳くらいになるとそうなるのであろう。

 

 五木氏が真間駅で永井荷風にばったり遭遇したように、私も五木氏のお姿を偶然目にしている。

一は日本橋高島屋紳士靴売り場で。少し離れたところに鞄を持った男性秘書?が待機。

本人は靴を手に持ち、顔を近づけ異様ともいえる執着心で靴を吟味。なんだか製品開発研究者のような雰囲気。

 とても気になった。

かなり後になって氏がエッセイを連載している日刊ゲンダイを偶然目にすると、靴にこだわっていることを書いていた。その理由も思い出せないが戦後の貧しさが絡んでいたかもしれない。

 二は都内某大学の付近で。

髪の毛はぼさぼさ、顔色は悪くとても不健康に見えた。が、30年ぐらい後の現在でも長寿で現役なのだからわからない。

氏について

 私は五木さんの文学作品はほとんど読んでいないし、その影響も受けたおぼえはないが、街で拝見したお姿と真間駅でのエッセイが忘れられないものとして心に残っている。

と思う日が来るのは遅いほどよいと思う。

 

 

古代東海道 下総の国㉚ 市川市立図書館と五木寛之

市川市は下総の国府があった所であるがそのほか、なぜか万葉の時代から現在に至るまで異様に多くの文学あるいは文学者と縁がある。

東大本郷の近くの住宅地や幕府があった鎌倉がそうなのはわかるが東京東隣の変哲のない千葉の小都市が何で?と不思議に思えるほど。

 近代、その中でも比較的有名なところで、幸田露伴,伊藤佐千夫、永井荷風北原白秋島尾敏雄中野孝次井上ひさしさだまさし、、五木寛之、それにあの村上春樹まで。

本ブログのメインテーマからはやや逸脱するが、地元出身のはしくれとして紹介したい。まずは五木寛之氏の次のエッセイから。

昭和45年38歳時に雑誌に連載した随筆「ある日日本の片隅で」

 

競馬に熱中して中山競馬場の近くの北方町(ぼっけまち)というところに住んだことがあった。総武線に乗り換えて下総中山で降り、さらに満員のバスで競馬場へ向かう労力が省けて楽だった。

(略)

晴れた日には市川の図書館へ通ったり、本八幡の映画館の薄暗い2階で古くなった洋画を見たりして過ごした。時には京成電車台東区の方角へふらりと出かけることもあった。

そんなある日、京成市川真間の駅のホームで、永井荷風に初めて会った。

北風の吹くうすら寒い夕方、その老作家はジャンパーの襟に首を埋めるようにして、集金袋のような手提げを手首にかけて電車を待っているのだった。

私にはそれが荷風だとなぜかすぐにわかった。そして、一種の片思いにも似た親近感をおぼえ、その人の背後に立って、一緒に電車を待った。

(略)

 

北方と書いて「ぼっけ」と読むなんて地元でもかなり近所じゃないと知らない世界。

当方、その葛飾八幡宮境内同然のところにあった八幡の図書館も、JR本八幡駅前にあった映画館も、京成真間駅も子供の時からなじんでいるだけに懐かしい。

八幡の図書館は今の基準からしたら信じられないくらい狭く、蔵書も少ない貧相なものだったが当時はそんなものとして利用していた。

 あの2階の大きな平机に向かって後に売れっ子作家、直木賞作家になり、現在80有余の年まで現役でいる文学者が座っていたとは感慨深い。

 

その後、図書館は工場跡地に移転したと聞いたが当方転居しており、また立地が駅から遠い不便なところらしいので一度も足を運ぶことがなかった。

しかしにわか考古ファンとなり、鬼高遺跡に関心を持ったところそのそばに移転した市川図書館があると知った。

 これは寄らないと。

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 ちょっと古代史に関連というかこじつけて言うと国分寺の旧跡はほとんどわかっているのに国府,国庁跡は不明なところが多い。

思うに行政庁は時の権力者の都合で転居することにさほどハードルは高くないからではなかろうか。

狭い、不便、水が出るその他いろいろな理由があろう。蔵書数が増えたから移転するというのも同じようなものでは?

 

新図書館は打って変わってモダンなものになっていた。

図書館に入ってから子供対象と一般用のゾーンが別になっているところが多いがここは入り口から別になっている。

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左の一般用の入り口に向かう。出と入りが別のドアになっている。

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入ると、

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これは見事。

国会図書館より感じがいい。

何かの賞を受賞しているらしい。

幅広のホワイエのような吹き抜けの通路の片側に開架書棚が並ぶ。

スチールを排したウッドの書棚、蔵書数を稼げないのに低い高さにしてある点は立派。

 

こちらは地域資料

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近隣自治体の資料が見当たらなかったが、書庫内?

例えば市川市国府台北隣の松戸市栗山古墳遺跡とか川向こうの葛飾区柴又古墳に関するものはそばにあるとよいと思うが。

 

当方の愚著が5冊あった。ありがとうございます。