更級日記について、最近は学者先生の訳したものが多いようだけど昔は文学者によるものも多かったようです。
以下は井上靖訳(昭和40年河出書房新社発行の日本文学全集3)。口絵には堀 文子のオリジナル画がついているし、なんと贅沢なことか。
訳はわかりやすい。
以下引用
17日の早朝出発。昔下総の国には「まのの長者」という人が住んでいました。匹布を千匹も万匹も織らせ川で漂させていたといいますが、その人の家の跡だという、今は深い川になっているところを船で渡りました。
その当時の門の柱だという大きな柱が川の中に4本立っていました。同行の人たちが歌を詠むのを聞いて私も心の中で
略
という一首を作りました。その日は「くろとの浜」というところに泊まりました。
ここでも論争があり、
その川は今の何川か
長者に想定されるのはだれか
前日泊まった「いかた」とはどこか
などについて見解が分かれています。
此れとは別に最近出た本で、柱が半分水没している原因?について言及しているものがあって驚きました。
その中で田所 真氏はこう言います。「帰京時の長者屋敷伝説からもうかがえるとおり、平安時代の温暖化に伴う海進の影響で、低湿地には廃郷などが散見されたことであろう」
81頁の注19で、平安海進について説明し、奈良時代に現在より1m低かった海水面が10世紀初頭には現在とほぼ同水準になり、孝標一行の帰京時には50cm下降したとしています。
平安海進についてはウイキペディアでもほぼ同様の説明がなされていすが、東京都葛飾区史の次の説明文は縄文海進も含めて図示されているのでわかりやすく参考になります。ただし長者宅が市川市真間とする立場は少数説のようです。
以下引用
縄文海進以降の東京低地 :平安海進と海水面変動
氷河は氷期と間氷期の繰り返しで発達したり溶けて縮小したりするので、地球上の海水の量が変化し、海水面の変化が起こる。
8〜12世紀にかけて起きた地球規模の海水面の上昇が、日本の平安海進である。1100年頃には海水面は現在より約60㎝上昇し、文字で書かれた記録が残る時代では最高水準となっていた。
父が上総国司であった菅原孝標女は、『更級日記』の中に下総国府(現千葉県市川市)周辺の景観を書いている。これには、市川の真間にある長者という人の家は既に水中に没し、門柱が川の中から出ていたという。柴又河川敷などの発掘調査では、平安時代の遺構は地表の2〜3m下から発見された。