古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

文学講座・特別講演会『更級日記」の東国

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9月末、キャンベルさんの講演会があったばかりであるが、それから1月ちょっとで今度は図書館主催で講演会があった。9月の講演はコロナの影響でかなり遅れたのでそのせいで近接した模様だ。

しかし何とも贅沢な講演だった。 去年出たばかりの大著の編著者お二人、流通経済大の和田律子と早大の福家俊幸教授二名による少人数対象の講演。

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福家俊幸教授は2015年岩波書店の『更級日記全注釈』著者でNHKTVの歴史ヒストリアルに出た方とのこと。

 お二人は周到なレジュメと丁寧かつ腰の低い態度で話をしてくれ、また学会最新の動向を垣間見せてくれた。

両方とも専門は考古学ではなく平安文学であり、ともすれば謎解きに傾きすぎている傾向へのいい導きになっている感じがする。

 旅自体は少女の頃だが文章化したのは晩年。それまでにも親族その他相当なインテリ界の中で思慮研鑽も経ているだろうし作品の根底には源氏物語以外にもかなりの文学的素養がベースになっているとの印象を受けた。

 作者は掛け言葉、諧謔本歌取り、先行作品中の言葉の地名などを気にかけており、表面上の字句にとらわれすぎるなと言っているような気がした。

例えば冒頭のところで、上総の国が「あづま路の道の果て(=常陸)よりもなほ奥つ方」というのは論理的におかしいととらえるのではなく作者は

 常陸の国を思いつかせ

 次いでベストセラー源氏物語の中の悲劇のヒロイン浮舟を想起させることを狙っているようにみてよいのではと。

 

 枝葉のことであろうが定家が孝標女の作品と書いていた「夜半の寝覚め」「浜松中納言物語」も最近では孝標の女の作品と思われていること、少なくも片方は確実と思われるとのこと。

また、祐子内親王のもとへの宮仕えに際して父の前官が常陸介となるところから作者の女房名は「常陸」であったとみるのが蓋然性が高いとする。

そしてこのことも冒頭の文言に跳ね返るようだ。自らの候名(さぶらいな)を冒頭に置いて名乗りつつ自己卑下・謙譲の文章にしていると。

 

終わってから、せっかくのチャンスなので福家教授に質問させてもらった。

「その春、世の中いみじう騒がしうて」を「その年の春は疫病が大流行して」と訳する人が多いが(キャンベルさんもそうだった)、いみじう騒がしという言葉に疫病を意味するものが含まれるのかと。

お答えは、含まれない。周囲の状況からそう訳したのであろとのこと。

聞いてほっとした。井上靖の訳もそこに疫病の言葉は使っていない。

 

 

なお、レジュメには「くろとの浜というところ」に関して「黒砂くろとの浜公園」の写真が添えられていた。私はこの少し先の台地上のところを横切っているので再度行って見ることにした。