更級日記において「くろとの浜」はいろいろな意味で重要なポジションをもつ地名だ。
市原市立図書館主催の講演会で配布されたレジュメには黒砂くろとの浜公園の写真が載っていた。
当ブログ古代東海道更級日記・下総国⓴では少し北側(内陸)、千葉大と敬愛大キャンパスの間の道黒砂台をそのまままっすぐ東京に向かって歩いた。
しかし、黒砂くろとの浜公園は紙資料で探そうにもわからない(新しいせいもあるが)。1万分の1,7千分の1には載っていない。グーグルマップにも出てこないとは珍しい。
実踏するしかない。
自転車で探索し、道路に立つ案内板でようやく。
下の図がわかりやすい。
私はAで進んだが千葉街道Bからすぐ登ったところにあった。
新港横戸町線は相当な大規模工事だったらしく、ざっと見る限り歴史を感じさせる雰囲気は残っていない。この公園をこのネーミングにした根拠はどの辺にあるのか説明が欲しい。
率直な印象からすると海に近すぎる。すぐ下が黒砂陸橋でそこは海だったはず。
「砂子はるばると白きに、松原茂りて」の立地とはいいがたい印象を受ける。
ただしこのあたり平将門配下の6人の武将が逃げ延びて住み着いたとの話もあるところで土地の人の愛郷心は強く、新港横戸町線道路工事には相当の反対運動があったようだ。かなりの地域資料が見受けられる。
上記写真「黒砂分教場の歴史」に海縁の道路事情が分かる記述がある。昭和13年黒砂分教場に勤めていた遠山あきさんの手記だ。
文章も描く世界もいい。まるで「24の瞳」のよう。
(以下引用77頁)
分教場は海をすぐ眼下に眺める丘の中腹にあった。
始業も終業も、カランカランと窓の外にぶら下がっている鐘の紐を引っ張って鳴らした。
略
学校のすぐ下は国道で千葉市の登戸(のぶと)から稲毛の方へ道は一直線に伸びていた。道から下はすぐ砂浜で、続いて遠浅の海だった。
嵐の時は海の大波が国道にもろにかぶさってきて,校舎の窓ガラスが潮のしぶきに濡れて曇ってしまう。バスは運休になり、こどもも時にはお休みにするときもあった。こんな時、分教場主任の先生は「早じまいにしましょうや、バスはだめですから京成電車で帰ってくださいよ」ということで、私は坂道を登り~
略
この分教場の位置は4枚上の写真に記念緑地として残っているのがうかがる。
四国の遍路道もそうだけど海縁の道は時として通れなくなることもあり、高台を通る迂回道が用意されているところが少なくない。
土砂崩れのある山道すぎるのもリスクがあるがそれほどでない高台ルートならそちらが一般ルートになるのもおかしくないと思う。
なお千葉街道が海に面していた点は次の写真からもうかがえよう(道路の左側は海)。かっては道端で地元漁師がハマグリを売っていたそうな。