じめに
現在の千葉県と東京都の境は江戸川であるが、下総国と武蔵の国は隅田川を境としていた。確かに東京都江戸川区から見る対岸は緑の多い小高い丘陵になっており景色はかなり変わり、違う国のようにも思える。
孝標女自身も江戸川を境と誤解していたが無理がなかったかも。
今も西方、都心方面から古代東海道を偲んで東へ歩いてくる人も江戸川までやってきて「思えば遠くまできたもんだ」と感慨にふけってここで帰る人が多い。
これらのことを踏まえて同じ元下総国であるが隅田川と江戸川の間を別のくくりとした。ただし孝標女一家が歩いたのは京へ向かっての西向きなので、この線(進行方向)は曲げない。
この区間は都内であり、これまで歩いてきた千葉県内とは異なりかなりわかりやすく平坦な歩きやすい道である。古代道ファンやハイキング目的で歩きたいと思う人も少なくないと思われる。
それらの人の参考になればとの趣旨も念頭においてまとめてみた。
(なお、これは2021年11月28日実際に江戸川右岸から隅田川を越えて南千住まで通しで歩いたものであり写真に写っている道路や町並み風景はその日のリアルなものとなる。)
1出発 京成江戸川駅
ここで降りたのは私の生涯で1か2か。こんなに土手そばだとは思わなかった。
土手を登れば向こうに国府台の丘が見える。
風が吹き肌寒い日であったが、日曜日ということもありウォーキング、ジョギング、サイクリングの人が結構いた。
和洋女子大の建物は景観にマイナス!これ以上目立つ建物は3000年の歴史的景観保護の点から遠慮願いたい。市川市も指導いただきたい。
さて、土手をどこまで北上するのか。
菅原の孝標一行が江戸川を渡った地点はどこか?
の論点に関係する。
A説 古代東海道を踏襲する千葉街道延長上にある市川橋付近(少し北先に関所跡あり)とする立場
B説 いや、更級日記に松の里とあるから松戸だ、松戸と言えば歌に出て来る「矢切の渡し」でしょうとする立場
この両説がほとんどか。
C説上
しかし、私は下図のように第3の場所を主張する。そして、その地点と上小岩遺跡通りをほぼ直線に結んだものがルートであると考えている。
だからそのルートにぶつかるまで堤防を北進する。
第三の場所をあげる理由については次回に述べたい。
(東京医科歯科大教養部のところに付した矢印は前方後円墳のある位置)