古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国(江戸川から隅田川)⑥ 四つ木、古代道の表示、葛西清重、荒川

上小岩遺跡通りの出発点同様はっきりしているルートの中で最終に近いポイントなので少々詳しく述べたい。

奥戸街道平和橋通りの交錯するところがわかりにくい。

踏切を渡ってそのまままっすぐ進むと北西の水戸街道方面に行ってしまう。

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渡ってすぐ左折し、葛飾郵便局本局前に出るのがルート。

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しばらく歩くと二股に分かれるところにぶつかる。怪しい。

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千葉市内でもあったが細い古めかしい直線道と迂回するような太い道があった場合、後者は行政需要というか交通の便利さのため後で作った計画道路が多い。

ここは直線を延ばすと荒川にぶつかり、さらに対岸に目をやると鐘ヶ淵駅近辺、隅田川へと連なるので、細い道を行くことにする。

 (興味深いのはこのルートは川の手前でお寺にぶつかるが、そのお寺には親族が眠っていて何回か行ったことがある点だ。あまりに偶然!)

四つ木駅に向かう広い道に出たが横切り、さらに直進する。

 

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抜けると

左は西光寺。正面は荒川にまたがる国道水戸街道

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何やら立て看板らしきものがあるので行って見る。

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奥戸小学校前にあったのと同じく古代東海道を説明するもの。やはりこの道でよかったのだ。

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奥戸小前の表示板は世間に注目されているが、こちらについては耳、目にしない。

都心から巨大な川にかかる巨大な橋を通ってくると目に入らないのかも。

確かに先ほどの細い道も逆方向から見ると分かりづらい。

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 道を歩くとき順方向、逆方向で変わるところはない?とんでもない。どころかありすぎる。四国遍路では「逆打ち」というめぐり方は何度も遍路をしてからやっとできるものになっている。風景が異なる、道順を示す略号が見えないあるいは見えにくいなど様々の理由がある。

歩いていて反対方からやってくる遍路を見るとそれだけで尊敬したものだ。確かに歩き方、装備に無駄がなく、ステージが上を行っているのは明白だった。

 

西光寺

さて、案内図のすぐ左は西光寺敷地

せっかくここまで来たのだからと急遽墓参りをすることにした。

これまで荒川のほとりにある街道わきのお寺という意識しかなかった。

それがとんでもないことになったわけだ。

その理由1は古代東海道にぶつかる地点にあったこと。

もう一つが西光寺が源頼朝の有力武将葛西清重の居宅であったこと。

 

とりあえず正門

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ふと塀の上を見ると

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これまで田舎の名士ぐらいかと気にかけていなかったのだが。

道を隔ててさらにわきの道に入ると塚があると聞いて行ってみた。

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東京都指定旧跡となっていた。

平氏追討、奥州藤原氏征伐とかの武闘に参加していたとは。

このことのほか、清重は親鸞に帰依し、ここ居宅に親鸞がとまっていたという事実は大きいと思う。

以下西光寺のホームページより引用

(これまでお寺のホームページを見て見ようという気になることは全くなかった。)

西光寺は正式には「超越山来迎院西光寺」といいます。嘉禄元年(一二二五)の創立で、天台宗に属し、総本山は比叡山延暦寺です。

西光寺の創立者は、葛西三郎清重という 鎌倉時代源頼朝を始めとする鎌倉将軍三代に仕えた武将で、 西光寺は元々葛西三郎清重の居館でした。 清重の居館が寺になったご縁にはドラマティックないきさつがあります。

今から約八〇〇年前、親鸞聖人が関東遊行布教の際に、 清重の館(現西光寺)に立ち寄られました。その後、雨が降り止まず親鸞を五十三日の間、足止めさせることになります。 梅雨の時期だったのかも知れません。 しかし、その期間に清重は存分に親鸞の教えを聞くことができ、 喜び感動のあまり発心し、親鸞聖人に帰依して御弟子となり、名前を西光坊定蓮(じょうれん)と改め、自らの居館を西光寺とします。

それからというもの、親鸞聖人直筆の阿弥陀佛(現存)を本尊として日夜拝み、日本仏教の復興は聖徳太子の功績によることを知り、 その高徳を慕い、自ら聖徳太子像(現存)を刻みました。

親鸞も清重の気持ちに応え、聖徳太子像の御腹籠(胎内仏)として自ら阿弥陀仏像(現存)を刻み清重に与えています。

以来、雨降山(うこうざん)西光寺は浄土真宗の寺として法灯を伝えていますが、その後、度重なる戦火のもとに寺は衰退し、一時は無住職状態になります。 一六四〇年頃、天台宗の僧侶の尽力により、浅草寺の末寺として復興し、山号を超越山と改めました。 来迎院とは阿弥陀様がお迎えに来て下さるお寺という意味です。

現在、超越山来迎院西光寺は、天台宗の寺院として、 現在も伝教大師最澄様の教えとともに、法灯を伝えています。 皆様のお参りをお待ちしております。

 

何度も火災にあい、無住の荒れ寺の時代もあったのがその後天台宗の僧侶が救済復興したようだ。

市原の光善寺千葉市千葉寺同様本来は廃寺跡といってよいのかも。もっともそんなことを言うと国分寺のほとんどが国分寺廃寺ということになってよろしくないのかも。

 

いずれにせよ更級日記の後200年時には有力武将が住み、頼朝や親鸞が通ったというのだからここら辺が古代時の重要な通りであったことに間違いなかろう。

 

 

まだお昼。時間はあるので四つ木の駅から帰宅するのではなく荒川を越えて隅田川に向かうことにする。

大島医院の前の道を進み、川を船で渡って対岸の保育園や隅田小学校あたりの道に出たいがそうもいかないので曳舟川通り、水戸街道が通る橋で行くため少しずれる。

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橋の歩道につながる階段を登ったら南側の新四つ木橋だった。古い四つ木橋の方が中央部に鉄のブリッジがあって雰囲気が良いのだけど。

荒川はここらへんでは東側から綾瀬川、緑地帯、荒川の順になっている。

 

写真上の高速道路は中央環状線。下は綾瀬川。先で中川に合流しそこらへんにあるのが葛飾ハーブ橋

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南の京成線のさらに南側にあるのがさだまさしの歌に出てくる木根川橋。

 

東京スカイツリーにも近くなっている。

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