古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国㉞ 井上駅と本道・支道分岐点

下総国国府の位置はほぼ解明されているが、最寄りの駅「井上(いかみ)駅」については争いがある。

 

A説 国府の推定される市川市国府台より1km坂を下った砂州上とする。現市川広小路あたりか。

参考引用地図 地図で見る東日本の古代 P133

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市川広小路

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B説 国府内の常陸国に向かう本道と上総国に向かう支道の分岐点に近い地点とする。

参考引用地図 2004年「古代の道」(著者武部健一)P83

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武部「古代の道」は1冊で畿内東海道東山道北陸道について記述しており個々の道路につい詳しく記述する余裕がないなか、東海道下総の房総路井上(いかみ)駅近辺についてはかなり綿密な記述を行っている。よほど思うところがあるのだろう。紹介する。

 

豊嶋駅(東京都台東区谷中霊園)の次の駅は井上(いかみ)駅(市川市国府台)で、下総国府から南に1㎞ほど下がった地点に想定されていた。井上(いかみ)駅は古くから諸説あったが、1986年に下総国府のある国府台で「井上」の墨書土器が出土して以来、その周辺であることが定説化した。

具体的な場所として山路直充が国府台下の砂州にあるとした。しかし、分岐点は駅に置かれるのが一般であるのに、井上駅をこの位置とすれば分岐点であるべき駅位置としてはあまり適当とはいえない。

木下は井上駅下総国府の付属駅だと考えている。付属駅が必ずしも国府内にあるとはいえないにしても、この場合のように分岐点が国府内あるいは直近にあると考えられる場合には井上駅そのものも国府内(または直近)にあったと考えてもよいのではなかろうか。

そもそも「井上」の墨書土器も台地上で出土したのではないか。

あえて仮説を提示し、図44でも井上駅を分岐点の位置とした。豊嶋駅からここまで12.4キロである。井上駅の駅馬数もこれまでと同じく10疋である。

 

私もB説を採る。

ただ、A説は分岐点を上記地図にあるように井上駅あたりに設定するので分岐点から遠いゆえの批判はできない。問題は分岐点をどこに見るかであろう。

私はA説に次の点から疑問を抱く。

豊嶋駅(台東区谷中霊園)から東京低地を通って延喜式東海道本道上の常陸国茜津(あかねつ)駅に向かうとすると江戸川右岸前方で鋭角に南下して川を渡り、井上駅で90度左折して北上することになる。直線で進めば1本で済むところを何故ほぼ2倍の距離を要するコースにする必要があるのだろうか。

平地間なら距離だけの追加で済むとしてもそこに高低差があればなおのことシビアな見方がされるはず。

現県道1号線(市川・松戸線)はそのまま古代東海道というわけではないが、今でもかなりの傾斜度のある坂で、子供の時から大人になるまで日々通勤・通学に使っていた者にはいつも意識していた特徴である(バス便)。

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そもそもこの京成国府台駅あたりから和洋女子大、千葉商科大、東京医科歯科大につながる現状の坂道は古いものではなく明治期に国府台を陸軍基地とするため新規に変更拡幅されたもの。その前はより狭く急傾斜であった。

 

 

当時の傾斜は現県道両脇に残る坂道(AとB)の方が当時の実態に近い。

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Aの様子

 

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この道路北方に法皇塚古墳が存する。

 

Bは

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実際は写真より傾斜感強い。

この先の県営住宅や郵政省官舎付近ではかなりの遺跡が発掘されている(古代道跡を含む)。

地域情報誌

坂の基部と上部の高低差は次の写真で理解できよう。左上の木立に住居が見える。

 

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遠回りして重い荷物を押しながら長い坂を上る必要はないのではないか。

それより上小岩‣現真光院付近からまっすぐに東進、渡河して現東京医科歯科キャンパス内古墳の脇の道を通る方がはるかに合理的だと思う。

 

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この渡河点aから先の分岐点(現国立国府台病院付近)bまで距離は近く、高低差も20m程度でハードルは高くない。すでに数百年前に同地に前方後円墳を作る土木技術を有していた民が必要に迫られ道路掘削・整備するくらいさして困難には思えない。

 

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平地ならいざ知らず国府域が南に向かって低地(真間の入り江)となるところではなおさら、国府内の官道の交錯する箇所に井上駅を設定したと考えたい。

 

かような考えは現代の鉄道基地でも同じだと思う。下図は京成電車高砂駅付近のもの(高砂検車区)。こうすれば2ルートに分かれる線路双方からの入・出がしやすくなる。

本線と支線などまるで街道のお話のようだ。

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駅家がどこにあったか、またその間をつなぐ駅路がどのような経路を通っていたか

 

 これについて武部氏が木下良氏の基本的見解を基礎としてまとめている。極めて有意義でさすがに専門家という印象を受ける。

 

10項目挙げているが、そのうち②と⑧を引用・紹介(前著p12から14)

②駅家(うまや)の位置は、駅路の屈曲点、他の道との交点,渡河点など交通上の接点である場合が多く、また小丘陵など災害に対して安定的な場所であり、かつ泉、井戸など豊かな水源のある場所が選ばれた可能性が高い。

⑧渓谷などの曲折した水路、あるいは屈曲の多い海岸線に沿って駅路が通ることはほとんどない。むしろ屋根沿いに山を越えて直達する場合が多い。自然災害に対する安定性と軍事上の安全性の両面からの意味を持つ。

 

当ブログでは現江戸川を渡河する地点を東京都江戸川区上小岩遺跡通りの対岸、里見公園と東京医科歯科大の間ととらえ、そこの道を登る付近に井上駅があったと考えているが上記②の要件はほぼすべて充足することになる。