古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 武蔵国① 入国した隅田川先の古代道比定・推定は困難

 白髭橋(隅田川)を渡れば武蔵の国

下総の国江戸川から隅田川までは前記のとおりここが古代道だろうと推定される道があるが、隅田川の渡し場(☆A)から豊嶋駅家(☆D)に至る道についてはハッキリ比定する方はいないようだ。

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「地図で見る東日本の古代」も東武鐘ヶ淵駅とJR日暮里駅付近を点線で結んで推定・想定路としているだけ。

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*これは明治42年の陸軍迅速測図をベースにしている。明治42年というとかなりの産業が隆盛となっており,地図でも鐘ヶ淵駅そばに鐘ヶ淵紡績、川の反対側右岸には東京紡績の工場そして広大な貨物停車場が見えている。

 

学者・研究者はそうするしかないのかもしれないが、「円仁の足跡を訪ねて」的に実際に体を使って進もうとするときは、どれかに決めないと進めず困る。

 

なんでこの場所は困難なのだろうか。

国府跡より国分寺跡は残りやすい。お寺より道はもっと残りやすいはずなのに。

 

思うに

・川の流れが大変に変化しやすい場所でそれに伴って道路付も変化しやすい

・明治以降、遺跡の保護思想が薄弱のときに大規模な工事が行われている。

 紡績工場やガスタンク

 国鉄の大規模施設

関東大震災、洪水、戦争時の空襲など重大な被害を受けることが多く、そのたびに道路の改編も含んだ大規模な再開発が行われた

などが原因ではなかろうか。

最近の地図ではこうなっている。

 

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 右岸紡績工場付近は巨大排水ポンプ場や都立産業技術高専に変わっているが、JRの貨物駅、東京ガスは健在だ。

 橋場町2丁目にあった大寺総泉寺は迅速図には寺マークが認められるが関東大震災で罹災して今や白髭橋近辺には存しない(板橋区に移転)。

同寺の歴史は豊かで梅若伝承にかかわり、千葉氏、佐竹氏の名前も出てくるので無視することはできないだろう。
これらのことを踏まえながら次回以降なんとか一本の通る道を仮定していきたい。