古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

迅速測図と活用v2 / 古代東海道 下総国㉟

迅速測図(圖) 

1⃣比較的新しく歴史・地理について書かれたものを拝読すると参考文献として迅速測図を挙げる人が多い。

研究者はむろん、郷土史家、はたまた町内会のレポートまで。

 例 市川市国分町自治会には中国分史書編集委員会なるものまであって格調高い発表をされているがそこで添付。内容も自治体の市誌や学芸員と変わらないレベルに感じる。

 (参考) 引用されている迅速地図では国府台に軍隊が進出する前の土地の様子や江戸川右岸江戸川区の様子もうかがえ、興味深い。やはり現里見公園対岸には都心に向かう道筋が見えている。

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☆Aは真光院か Bは渡河推定箇所 Cは北:里見公園・総寧寺、東:国府台病院への分岐点

屈曲点Dは左:和洋女子大入り口、右:国府台スポーツセンター入り口(国衙推定地)

矢印1は総寧寺参道であるが古代時の渡河点に向かう道という考えはどうか

矢印2は現県道松戸線、矢印3は弘法寺への道、

 

2⃣ 広義では歴史・地理になるのだろうけど、植生、生態学分野でも活用されている。

 市川市史 自然編に次のような記述があり、至極納得する。

 「過去の植生は地下に遺された植物遺体に基づいて推測されるが、明治時代になると地形図が登場する。最も古いものは1880年(明治13年)に作成された迅速測図である」とし江戸時代後期から続く植生の概況とみている。

(第2章市域の自然の姿とその変遷 第2節低地に水田が広がっていた時代 (1)土地利用図を用いて地域の変遷をたどる。p43)

迅速地図がなかったら江戸時代後期の植生は地面を掘って植物遺体を調査するしかなかったわけで、文字や図面に遺しておくことがどれほど価値を有することか門外漢でも理解できるところだ。

同書は「市の木」黒松についても迅速図原図を重要な説明資料に用いている(第4章第2説 P188)。

3⃣では迅速測図って何?であるが

ここで話題とする地図の正式名は第一軍管地方二万分一迅速測図

概要は(ウイキペディア)          

*復刻版を発行している地図センターは、明治13年から明治19年にかけて作られた「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」は陸軍参謀本部によって実施されたわが国初の広域測量の成果。等高線等による地形表現のほか、水彩絵の具により市街地の状況や田畑を巧みに彩色してあり、見た目も美しくわが国近代地図作成史上最高の傑作といってもよいと激賞する。

しかし、地図作成を含む軍制全般がフランス方式からドイツ方式に移行されたため原図もドイツ方式の一色刷り用に書き直されて刊行されたため、原図は日の目をみることなく倉庫で長い眠りについていたとのこと。

迅速図の例

下は更級日記中の「くろとの浜」あたりではないかとされる黒砂村落部

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なお、地図名は千葉県下総国千葉郡黒砂村落となっている。古代の国名の前に明治期の県名が来るとは興味深い。

東京湾ではなく品川湾と記載。確かに江戸時代に東京湾はありえない。

木の種類も記載されているが,木偏に右側の上が八,下が口という文字が散見される。辞書にはショウと読み、松の別体とあるが松の文字も使っており意味不明。

測手 陸軍砲兵少尉 小野田健二郎とある。

 

迅速測図自体の歴史を考えると伊能忠敬の地図以上に興味深い。明治政府は倒幕したのに旧幕府の技術官僚的幕臣の力に頼ったわけだし。