古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 武蔵国③ 荒川区南千住/汐入(その1)

隅田川には渡しが20前後あったという。

下総から続く古代道との接続を考えると渡った箇所は隅田(住田)の渡しであろう。

では隅田の渡しはどこか。

現在の水神大橋と白髭橋の間、隅田川神社の対岸当たりではと推定されている。

そう考えて対岸の地に行って見ることにした。

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白髭橋を渡って右側だ。

渡ったところ(白髭橋西詰)から早速歴史の息吹を感じる。

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天皇行幸記念

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対岸墨田区から見た入り江のよう地形になっている瑞光橋や汐入公園に惹かれ、またヒントを与えてくれる標示があるかもしれないと右折して川沿いに瑞光橋を目指す。

 

歩いてすぐ堤防左下に神社の姿が目に入った。

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ある程度のアウラを感じるもその時はその神社がどんないわれを持つか全く知らずにパッシング。

対象が物理的に見えていてもその意味を理解するものがこちらに準備できていないと見えているのに見えていないことになってしまう。

裕福なファミリーが幼児を連れてフランスに行ってルーブル美術館を見せても1歳、2歳では記憶に残らず無駄だろうに。それと似ている。

 

瑞光橋、瑞光橋公園に行っても取り立てて得るものはなかった。

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都立高専の塀に沿って西進。

 

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現在、産業技術高専となっているが前は航空高専だったはず。都立高専は改編がなされ、また分校的施設が多く体系がわかりにくい。

都立大も石原知事の時?に首都大学何とかに改名され、現小池知事の時にまた前に戻った。

たかが校名というが都立高校であってもその名称変更は条例改正を伴う議会案件で楽ではないのだけど。

 

ここら辺よりさらに北、汐入地区(南千住8丁目)は近代的で広い空間を確保しながらの整然とした高層・中層マンション街に変身している。

いまや荒川区の新しい顔だ。

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分譲価格はお高いのであろう道歩くファミリーからもその雰囲気が伝わる。

しかしぬくもりを感じられずスウェーデン郊外の住宅街みたい。近代的だけど寂しそう。

歩くのは南側。くすのき通り。

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JR隅田川駅にぶつかり、フェンス越しに社会見学となった。左折。

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スーツ旅行さんが京都まで自転車で行って,帰りに自転車を1両貸し切りにしたコンテナに載せて運んでもらったというユーチューブがあり、どこかわからないけど貨物駅の様子が映っていたので印象深い。

 

橋場橋通り入り口交差点で右折し、三ノ輪方面へ西進。

あたりは物流倉庫街になりうら寂しい。

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海抜ではなく地上高の予想水位。5mだと平屋の屋根では水没してしまう。

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464号の大通りにぶつかる。

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向側2本の道とも大関横丁(三ノ輪駅)へつながる。手前自転車の右側は交番。反対から見るとこう。

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 ここまでの道は下の地図で赤丸、B路。

が、果たしてふさわしいのか確信は持てない。

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驚くほどの直進性は保たれこの点は古代官道の要件を満たすが先のC路と直線で結ばれていない。

 この点ではむしろBより1段下のC右路の方がはるかにふさわしい。しかしC右路は右端が東京ガスの敷地にぶつかり遮断されている。この点をどう見るか。

 

考えたのが

東京ガスが工場を作る前に道があったのではないか

②そしてその道は石浜神社につながっていたのではないか、という推論だ。

石浜神社の沿革が気になる。

石濱神社(石浜神社) | 神社と御朱印 (tokyolovers.jp)

石浜神社 - Wikipedia

(引用)

724年神亀元年)に創建され,奥州征討の折、源頼朝が戦勝を祈願し、また元寇の際に、朝廷鎌倉幕府7代将軍惟康親王勅使として戦勝を祈願させた。いずれの戦役にも勝利したことから、中世以降関東武士を始め、多くの人々の崇敬を集めることになった[2]

とある。

荒川区最古の神社らしい。当然奈良時代から周囲には一定の道路があったことになる。また、その歴史性故過去から現在に至るまで容易にはお取りつぶしができなかったということが言えよう。

現在の光景はガスタンクの隣に立ちあまりにミスマッチ。立ち退きを迫るも断られた、あるいは言い出せなかったということがあるのではなかろうか。

その辺は社史に載っているかも

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C右路右端の行き止まり地点と石浜神社の位置を航空写真で見て見よう。

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東西に道があったとしても不思議ではない。

ここらへん、迅速測図原図でヒントは得られないか?

迅速測図原図を置いてある図書館は少ないし、あってもその図書館近辺の少数というのが多い。お高いからかな。

と、思っていたら農林省の外郭機構が関東についてネット公開していた。

これは助かるし、うれしい。国民の財産を真の国民財産たらしめるにこれに勝る方策はないと考える。

京大学長から国会図書館長になった某氏の考えがだんだん浸透してきている感じがする。

そこで、検索してみたのがこれ。

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☆1は瑞光橋付近だろう。

☆2は右から「橋場渡」と読める。ここから☆5に至る赤い線は現明治道路。

 明治道路に一部ぶつかる位置に今や移転している「総泉寺」が見えている。

しかるに石浜神社が見えていない。変だ。☆3かな?

そもそもこの写真、2枚の原図を張り合わせたもののようだが私が?マークを付したところでずれが生じているように見える。

もしかするとこのあたりに削られている部分があり、そこに石浜神社があるのかも。

古い道はa, b c に見えている。

 

 逆に地図に記載があってわからないのが現隅田川駅の引き込み線が描かれている点だ。この貨物駅できたのは明治30年と聞くが原図が作成された明治13年ころ。おかしくないか。鉄道に詳しい方のアドバイスが欲しい。

  (続く)

 

付記:地元の方の地元愛に基づく記事はとても参考になる。図書館の地域・行政資料コーナーに負けていない。汐入地区は関東大震災や空襲の被害はほとんどなかったとのこと。水害は多かったようであるが。