隅田川の渡し(白髭橋の少し上流か)で対岸石濱あたりへ渡河するまではわかるとしてその先がはっきりしない。
豊嶋の駅家が谷中とする説を前提として石浜から三ノ輪までのルートのついては前に述べた。大関横丁交差点付近については次のように考えている。
明治通り三ノ輪2丁目交差点で右に曲がらずそのまままっすぐ東泉小学校の北側道路を進み昭和通りを越えて根岸図書館あたりに出る。
根岸図書館らの建物がなかったと仮定するなら先でぶつかるのが正庭(まさにわ)通りだ。正庭通(文書表現上は「り」を付さないのが一般)はその先を見ると常磐線を越えて荒川警察署あたりで現明治通につながる。
正庭通の名称に何かを感じてしまうが、昔の字名(北豊嶋郡字正庭)にちなんでつけた道路愛称とのこと。
荒川区の道路管理についてのネット広報は素晴らしい。一般教養としても非常に勉強になるので閲覧をお勧めする。職員の採用区分的には土木職分野だと思うが、最近思うのが災害、防災はむろん、農業、園芸、流行の小屋づくり、ランドスケープ、歴史地理学、考古学まで土木の知見が不可欠に感じられる。 建築にスポットを当てすぎてはいないか。
さて、昭和通以西、どの道で日暮里駅(谷中)へ進もうか。
正庭通を縦軸にして左への横軸的道路として7本くらいあり、迷うばかり。
①は東日暮里一丁目交差点で左折する愛称「二ノ坪通り」。北すぎるだろう。
②も天王寺に向かうには北すぎる。
③④になるとその点は合理的になるが、朝鮮第一初中級学校キャンパスにぶつかって進めなくなる。しかし、この学校とその西にある公園の存在はかって、公的地域であったことの推定材料にもなるのでマイナスにはならないと考える。
④は南千住二丁目で考えたC路とほぼ水平であり、大関横丁交差点を捨象すれば連続しているとも考えられる。
その途中にある東日暮里1丁目の東日暮里ふれあい館あたりはかなりの身分の旗本屋敷であったらしく、このことも古くから開発されていた地域の証左になりプラス材料となろう。
④の道を西に進めば日暮里公園西側の道につながり、蓮念寺南側、諏訪台中第二校庭北側を通ってある程度日暮里駅近くまで進める。
⑤もC路とほぼ水平であり、東日暮里1丁目の東日暮里ふれあい館あたりを通る点では④と同じであるが、朝鮮第一初中級学校キャンパスにぶつからずその南にある猿田彦神社や公園の前をとおり、細いながらも諏訪台中第二校庭南側を通って目黒駅前、線路の反対側にある天王寺に対する地点に出ることができる。
⑦は、ちょっと立派すぎることと大きく湾曲していることから特に根拠なく敬遠することにして、⑤のルート(かんかん通り)を歩くことにした。
では、かんかん通りのいわれとなっている猿田彦神社あたりから。
思ったより小さい。
劣化していて読みづらい。江戸期創建。さほど古くはない。
西へ 第3日暮里小北側
尾竹橋通りにぶつかる。行き止まりに見えるが少し北にづれるところに道が見えるので行って見よう。
四つ木の西光寺前の道程度ではある。なんとかなりそう。
持ちこたえる。
駅付近の町並みが見え始めている。オアシスを目にする感覚だ。
諏訪台中
58号尾久橋通りが見える。
この地図は市販のそれより、グーグルより有用だ。
平屋だと水没する。東京低地の終わりも近い。
あの階段を登れば上野、谷中の台地に行ける。
見えてきた。