(末尾に追記があります)
現在地から目的地へ行く場合に、出発箇所ではいくつかのルートがあるとしても目的地近辺の都合から遡って出発ルートの選択が限られる場合もある。
思考経済上も目的地近辺の(歴史的)地理を見ておくのが有用に思う。
江戸時代はつい最近のこと。
なにしろ渋沢栄一のお孫さん鮫島純子さん99歳は先日2022年1月23日に講演しているが、彼女が10歳まで栄一は生きていたのだ。令和に生きる人がかっては江戸時代どっぷりの人と10年間共存していたことになる。
ところで、江戸時代までは西洋的近代的な土地に深い傷を与えるような国土改造はまだ少ないのでその当時の状態はさらにはるか前の時代を考えるのに参考になると思われる。
江戸時代は当然文字のある時代で書物も多くその点での遺物、遺跡は多く有用だろう。
こういった観点から前回の大関横丁から谷中のルートについてもう一度考えてみたい。
その前に出発地点である交差点の大関横丁なる地名が気になった。相撲取りが住んでいたとか?
まず、最初に目に入ったのが台東区立根岸図書館裏に立つ都営アパート前のこれ(二つの区入りくんでいてここは荒川区)。
奉行にもなった3千石の旗本池田屋敷跡とのこと。なんでこんなところに
明治通りを挟んで北側には対馬藩主宗氏の下屋敷があったと書かれている。
予想は覆された。ここら辺は場末ではなく大名屋敷が並ぶ一種の高級住宅街であったようだ。
東京都公文書館がいい絵図を公開している。
道路の北側に宗と大関両家が読める。南側が半分消えているが上記説明にある池田であろう。
大関増業については情報が多い。
そうそう、奥の細道で芭蕉が最も長く半月近く居候したのが黒羽藩城代家老宅。その家老の禄高は500石とのこと。3000石の旗本とはどれだけすごいかわかる。
大関の左にあるのは伊予新谷藩主加藤、上に見えるのは伊勢亀山藩主石川。
屋敷敷地は権力者の変更に伴い明治政府に返還したわけで明治期の迅速測図原図では下図左のようになっている。四角い更地のよう。
現在、跡(右)には病院、学校、都営住宅などが建っている。民間払い下げもあっただろうが。
政治権力の移動に伴う土地利用の変遷とでもいうのか、下総国の市川国府台などと似ている点もあって興味深い。
今回の目的地、谷中近辺の江戸後期から明治初期の道路付を見て見る。
現、日暮里駅から東に延びる直線的道路は見られない。
強いてあげればとぎれとぎれであるが図に付した赤丸の道程度。
ということは今ある道はほとんどが近現代の工作物か。
(なお、図に付したアは天王寺。イは隼人稲荷神社と善性寺。右図にのみ記載あるウは 後述する。)
まれにそれまで道らしき痕跡のないところに古道遺跡が見つかったとされる場合もあり、江戸時代になかったから古代の道はないということは論理的にはない。
逆にあったとしても鎌倉~江戸期に作られたのかもしれず、即古代道ということもできない。現に江戸の末期、沼津から上総国菊間(現市原市)へ移った殿様は道路を作り、それが記録に残っているし。
私が最近思うのは1970年代以降研究・学者先生が声を大にして話されているという「古代道は思ったより幅広く、しかも直線性を有している」との点が強調されすぎているのではないかということ。
確かに都、畿内、国府に近いところはそうかもしれないが全国津々浦々そうできるかいささか疑問に思う。現に21世紀の今でも国道の酷道ぶりと、それを楽しむオートバイや自転車ツーリング風景を視聴するたびにそう思う。荒れた時代には荒れた最低限の道路管理があってもおかしくないのではないか。
そう思うとき上の図に星印を付した確固たる道に惹かれるものがある。
・台地上、天王寺の南隣安立院の脇と
・現鉄道をまたぐようにして台地下の反対側に位置する隼人稲荷神社・善性寺と
を結ぶ由緒ある道があり、これを芋坂と言っている。
隼人稲荷神社・善性寺前あたりで右折し、古い道を選んで道なりに進むと途中から日暮里中央通りに合流し、前述の池田屋敷跡の説明板の前に達し、200mで大関横丁に出ることになる。
このルートのもう一つの魅力はほとんどが荒川区と台東区の境になっている道を進む点だ。古来から国境、村境の道は現代人が思う以上に意味があるとされている。大関横丁(三ノ輪)から谷中霊園への道はこれで考えたい。
隼人稲荷神社・善性寺あたりから谷中霊園までの道を以下に。
ちょっと先を左折して芋坂へ
この左角にある団子屋は夏目漱石,正岡子規、田山花袋など文豪御用達。吾輩は猫であるに出てくる。
橋ができていて鉄道ファン愛好の撮影場所になっているらしい。
渡って右に行けば安立院、天王寺。
左方向に徳川家墓地が位置する。
追記 2022/1.30
この芋坂に至る区境のルート、魅力があるが、途中の道があまりにカクカク曲がっているので少々違和感はあった。不自然ではないかと。
地元の情報を拝見して音無川の流れと知った。
隼人稲荷神社・善性寺前の歩道下は音無川暗渠とのこと。
善性寺門の前の橋は弟に会いにやってくる徳川将軍が渡ったので将軍橋という。
このレベルの川だと暗渠化される前の状況でも自然堤防が人の通る一般的な道になっていたとは言い難いのではないか。カクカク曲がっているのは田畑に水を引き入れるためにそうしたとの説もある。
ご近所の人が近道として利用することはあっても官道としての利用には不向きに思える。
利用するにしても大空庵の北側道路を先で左折せずにまっすぐ日暮里中央通りを進んで現日暮里駅近辺に進む方が素直な解釈ではなかろうか。
いくつも未発見の前方後円墳を発見している西日本の考古学の先生が、調査探索に出かける前にネットでの情報調査をすると述べていた(今,佐倉の歴博に移られたもよう)。
郷土史家というとどこか時間を持て余している年金暮らしじいちゃんばあちゃんの趣味遊びととらえる風潮があり、確かにその要素はあるが、何年も、何十年も現場を見ている人の嗅覚は鋭い。
区市町村の郷土資料館学芸員だって郷土史家に学問的裏付けを備えさせたようなものではないのだろうか。
とにかくここら辺は華咲くお江戸文化が江戸、明治から現在まで続いており、地元民の郷土愛は半端ない。しかも場所が場所だけにローカルな話かそのまま全国区の話になってくる。たとえば森まゆみさんの「谷根千」など。
そこらへんは次回以降にするとして今回拝見したものの一部を紹介させてただく。
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