古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 武蔵国⑨ 谷中に上って天王寺へ

 東京低地から上野台地(武蔵野台地東端、山の手台地ともいう。)・谷中霊園付近に上がるとして現在のJR日暮里付近の地形だと三つのルートが考えられる。北から御殿坂、紅葉坂、芋坂。

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 しかし、それらの各地点が多くの人と荷物を伴う集団移動にふさわしい通過ルートとなりえたのか,ほかにあったのか当時の地形が不明なのでわからない。

江戸後期の切り絵図だとこうなっている。御殿坂のほか芋坂が思いのほか使われているようだ。音無川の両側に歩道がうかがえている。芋坂の植木屋は現在の団子屋。

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 台地上のここら辺に豊嶋の駅家があったとするのであれば下総国井上驛や河曲驛付近ではみつかっている「驛」あるいは駅家を感じさせる文字が入った墨書土器が近辺で見つかってもおかしくないと思うがその点はどうなのであろうか。

 

 前後駅家との距離、方角、土木的立地条件からするとふさわしいらしく、多くの研究者が比定箇所としているので拠ることにする。

 

 天王寺はここら辺のシンボル寺院なので押さえておきたい。

なお、天王寺の前身感応寺の開山は1274年。その後日蓮宗日長の入寺、天台宗への強制改宗といったことが生じている。五重塔の放火もあり受けた波風は大きかったようだ。

彰義隊を支援したこともあってずいぶん小さくなっている。

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天王寺五重の塔跡

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