古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 武蔵国⑫ 上野台と本郷台

 

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 天王寺あたりに登ったとして京へ向かうには左折南下せざるを得ない。

 どのルートで?

既に足を踏み入れている足元の上野台尾根道をそのまま南下するのが素直な解釈にも思える。遺跡も多いし。

<上野台の古墳群>

  上野の台地に遺された唯一の墳丘として、摺鉢山古墳があり、前方後円墳と考えられている。このほか付近に、東京文化会館敷地内には桜雲台古墳、国立博物館内には表慶館古墳、旧都立美術館南正面に蛇塚古墳があったという。

古墳群のほかに縄文時代貝塚や遺跡もあり、JR西日暮里西側沿いに北から南へ道灌山遺跡、延命院貝塚、領玄寺貝塚天王寺貝塚、新坂貝塚、と続いている。

 上野台地には、博物館・文化財研究所、美術館、東京芸大、動物園など公的施設がたくさんあり、そのうち一か所は私の異動履歴の一つであって愛着もあるので上野台地尾根道南下ルートをたどりたいところだ。

 

しかし不忍池あたりで低地になる。そこは入り江だったのであり、どこかで対岸本郷台地に渡らなければならなくなる。

どこで?

 

下は切り絵ではなく全図というのだろうか大きな1枚ものの一部。壁に掲げるデザイン感覚でずいぶん昔に購入し、飽きて、しまっていたのを思い出して取り出した。

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加賀と水戸殿が現東大キャンパス。その上に黄色く「本コウ」と本郷通りが書かれている。不忍池に注ぐ谷田川と天王寺下を流れる音無川(石神井川下流)が見える。

 

天王寺あたりからそのまま進んで本郷台に移ってから南下するということも考えられよう。

本郷台地にも富士神社古墳、動坂遺跡、向ヶ岡弥生町貝塚、東大構内遺跡、湯島切通貝塚と遺跡が目白押しだし。最近では工学部武田先端知(たけだせんたんち)ビル新築に伴う発掘調査で弥生時代から古墳時代前期の墓の一種である方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が2基検出されている(2001年)。

 

しかし上野台地と本郷台地の間は谷間の低地。かなりの湿地帯だったようで簡単ではない。

それは古い話ではなく前述「ベスト谷根千」に古老に聞いた話が載っている。

不忍通りっていうのは、昔は千駄木の底なし田んぼと言われたぐらい,ずぶずぶ深くてね。そこに道を引くときは本郷区じゅうのゴミを持ってきて埋めてたという」

「この辺、昔は海の入り江でしょう。千代田線の地下鉄工事のとき、ヨシやアシの炭化したのが出てきたからね」

明治でこうなら、古代ではどうであったか。

 

 こう思う。

1 不忍池南の主要遺跡としてお茶の水遺跡、明治大西側遺跡、そして旧本丸西貝塚があるがこれとほぼ直線でつながるのが本郷台地コースだ。

2 どこかで河川・湿地を渡る場合、川幅は下流より上流のほうが狭いのが一般。

ならば不忍池南より少しでも上流で渡る方が合理的ではないか。

3 子供は長靴で水たまりの中を歩くのが好きだ。が、長靴をはいていないときは大人と同じく水たまりを避け、ぬかるんでいない箇所をスキップするように進む。

大勢の人が通り、物流道路となっているような官道・街道では恒常的にぬかるみ→水害に遇いにくい安定したところを選ぶであろう。

陣内(じんない)秀信氏(法政大)は江戸期の道路について次のように書いている。

「陸のインフラづくりとして、日本橋を出発点とする五街道をはじめ主要な街道が整備されますが、その道筋は地形をよく考慮したものでした。街道はどれも高台の尾根を通っています。文京区では、本郷台地の背骨を行く中山道が、千代田区では半蔵門から西に向かい新宿区を貫く甲州街道が、港区では南西に向かい渋谷を通りぬける大山街道(現在の青山通り)が、いずれも尾根筋に通されました。」

(東京の歴史4「序章 江戸を受け継ぐ都心の空間」)

 

今から400年前の人の心理はさらにその400年前の人の心理と変わらないと思う。本郷台地に進んでから南下しようかと思う。