古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 武蔵国 ⓰ 漱石旧居跡→根津神社→根津小学校→東大浅野キャンパス・弥生二丁目遺跡

漱石旧居跡前(千駄木1丁目)の道を南下すればすぐ日本医大前交差点。

 

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少々くたびれた感じ。再開発されるのかな?

ここで90度右に曲がれば本郷台地の尾根道である本郷通りにつながる455号にぶつかる。そのルートで道なりに進むのが手っ取り早いが、薮下通りなどせっかく一工夫で進んできたので根津神社を見、遺跡のある東大キャンパス内を通って行きたい。

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東大キャンパスは弥生、浅野、本郷の3キャンパスに分かれる。遺跡(星印)があるのは弥生キャンパスではなく浅野キャンパスなのでここを目指す。

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根津神社

交差点を左折して根津神社裏門へ進む下り坂だから「根津裏門坂」というがかなり高度は下がる。

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高度を上げるため少し戻って小さな道に入って進むことにした。

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進んだ先で弥生キャンパスにぶつかる。

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この道は新坂(S坂)と言い、鴎外にも縁ある由緒ある道

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まっすぐ進むと不忍通りまで降りてしまうので手前で右折する。

坂にまみれたわかりにくいい道となるが本郷台の崖と地域で有名な根津小学校を認識できる利点はある。

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藤島亥治郎氏(東大建築史教授。1899~2002)は「あの頃はちょっといい家の子はみんな誠之(せいし)小学校に越境で行っちゃったけど、僕は根津小学校に行ってよかったと思っている」と森さんに話している。

 

根津小の先で弥生坂に出る(319号言問通り)。

少し登って浅野キャンパス入り口が見えてくる。

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なお、弥生坂右側のゾーンも明治以降浅野家の土地だったらしい。

浅野とは安芸国広島藩42万石の大大名。

本で名前を知る多くの著名人が住んでいたようだ。
 前述の本は、佐倉城主堀田伯爵、寺田寅彦その他を地図概略とともに挙げているが中には団藤重光までいて、そんな最近の人まで大丈夫かと心配になるほど。

団藤の刑法綱要総論・各論は全国の法学部学生の基本書にもなっていた。ある刑法学者の葬式で弔辞を読むのを聞いたし、JR飯田橋あたりで学生とともに座席に座っているのを目にしたが、亡くなってからずいぶん経っているようだ。

 

お地味な門が少し開いていてそばにいた警備員氏に入門の可否を聞いたところ、快諾。

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言問門というようだ。構内の案内図でないと門の名は出てこない。

遺跡のことを聞くと打てば響くように9号館の後ろと教えてくれた。

市川市国府台の東京医科歯科大とここ弥生2丁目遺跡の東京大学の好感度は上昇。

古道が見つかっているW女子大は「キャンパス内入構ダメ、遺跡?私は地元の人間でないから知らない」といわれたのと大きな差だ。

 

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すぐ前にあるのが新しい遺跡発見地跡に立つ武田先端知ビル

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弥生二丁目遺跡

この左の道に入って9号館の後ろ、倉庫前にポツンと寂しく大昔の人の息遣いが。

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学史的、学術的重要性のため、国の史跡になったという割には小さな金属板の標示1枚と、とてもお地味。

今、全国の自治体が遺跡について国の指定を受けるため払う奮闘努力は大変と聞くが。

 

続く