古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

参考:四国遍路概略

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 更級日記紀行で一団がどういう形態で移動したかについては争いがあるようです。江戸時代の大名行列でさえ牛車を使った絵が1枚もないことから馬か籠か歩きしかないという人もいます。

 しかし幼児や妊婦も含む大所帯で馬車あるいは牛車なしに移動できるか疑問です。

 ともかく、従者のほとんどは歩きでしょう。実際に歩く者はどんな心構えなのかについて私自身の四国遍路概略で参考になるものがあるかもしれないので添付しておきます。

            四 国 遍 路 概 略

 

はじめに 10代の頃から漠然と憧れを抱いてきた歩き遍路ですが、やっと実現出来ました。準備から終了まで、思い、感じる量は膨大ですが、その概略をご報告します。

1 実施日と期日 震災の日3月11日から歩き始め、4月20日結願となりました(通し・歩きの41日間)。ゆっくりで50日、スピード第一で37日位となるので、一般的な中での少し早い方といえます。

歩行に障害がない前提で、無駄な日程を無くして40日にすることはきつくはありません。

2 困難度と年齢 HPには達成記録が多く載っていますが「通し歩き」計画で始めても断念する人も多いのが実態です。足、膝が痛くてどうしようもない、豆がつぶれて化膿して血だらけ、などなど。1200キロの連続歩行、それは東海道の往復以上となるので初めての人には未知のゾーンです。

意外だったのが70代の方が多いことです。スタスタとなんと早いことか。年齢による予断・あきらめは無意味です。

3 通し歩き達成のコツ ①荷物は10g単位で軽量化を図ること 重くても6キロ台にしないと。下着の着替えは一つにして毎日洗濯・乾燥しながらの行動となります。②準備は怠りなく 日々、歩く機会を多くすること。私は2週間前2日連続で41キロづつ歩いてチェックしました。③装備は可能な限りよいものを ザックはグレゴリー、靴はメレルのカメレオン5 (ゴアでビブラム底のもの)を選択、また、雨の中40数キロ歩くこともあるので雨衣も奮発してよいものにしました(ゴア)。結果的にこの3点は海外製品になってしまいました。④初めての場合、歩き始めの数日間は軽めのメニューにするのが良いようです。

4 ウォーキングについての医療系、スポーツ系のアドバイスは役に立ちません。5日で終わるものと1月半連続するものでは違います。遍路経験者、昔の人(例えば、芭蕉など)の記録が役に立ちます。①靴は2センチ大きいものにすることが必須です。足の膨らみ、テーピング+薄5本指靴下+厚靴下でそうなります。②杖はできるだけ長いものを。門前で売っている短いものは装飾性過多です。長いと両手で持って急坂で自分の体を支えることが可能となります。③時代劇に出てくる荷物の前後振り分けは有効です。

5 独自性を 案内書・人の記録を見て真似するだけではつまりません。私は、正岡子規記念館、山頭火の住居、白洲正子が探すのに苦労したという西行庵を追加しました。また、お礼参りに1番霊山字や高野山に行くことはせずに、堀辰雄会津八一その他文学者が愛する京都の寺にし(浄瑠璃寺岩船寺)、とても後味がよく、また得るところの多いものとなりました。岩船寺住職は丁度2月にNHKTVで空海について解説していましたが、お話にアウグスティヌスも出てくるなど教養のある方です。お寺を訪れる人は少なく、貧しそうで草取りや受付もご自分でしていました。

6 遍路で考えたこと、感じたこと

歩くこと、歩いている人、歩く人に接する土地の人々に感ずることが多い旅でした。

取り巻く風景、街並みに感銘を受けることの多い旅でもありました。東山魁夷の描く波、素朴画家原田泰治の描く農村風景そ

んなものを体感できる旅となりました。

四国のお寺に関しては以下高名な写真家藤原新也氏の言うところに同感です。(2008年、野鳥の会の冊子 TORINNOに載っ

たものです)。
「八十八ケ所というが、その寺は千差万別。
写真を撮るものからすると、その結界の中の寺空間そのものに生命力が宿っているかいなかが大事。
アウラを発散している寺、空っぽの寺がある。
もぬけの殻のような寺に入った場合、手を合わせることもしないし、結界門を出る場合,礼をしないこともある。
その寺に空気が宿っているかいないかは結界門を入った瞬間にわかる。何も無いとわかった場合、十秒でその寺を立ち去ることもある。

逆にその寺に空気が宿っており、寺のたたずまいのみならず、境内の傍らの地蔵、木々や花の一つ一つが神聖なほどに輝き、厳に呼吸をしている場合、心からそれに祈り、時には何時間でもその寺にいる。
そのようなアウラのある寺にいると写真を撮るに耐えるさまざまな細部が息づいているのが見えるばかりか、思ってもいなかった言葉がふと浮かんだりする。」

「そのような意識の流れを高ぶらせるものはその寺空間という一つの自然の力でもあるわけであるが、つまるところ、その自然の力を維持するものは人間力=寺の住職の人格なのである。」
 氏は八十八ケ寺中宗教空間としての魂を持ちこたえているのは十寺前後と述べています。
 

 

方丈庵跡のルートと地点の謎

鴨長明 方丈庵ルートと謎

  方丈庵跡とされる箇所まで2008年12月の実踏を基にご案内しましょう。
 克明な地図を事前に目にする事はなかった(ないのかな?)。が、目印となる2箇所の名称をおさえておくことで何とかなった。
 2箇所とは法界寺日野野外活動施設。この項を見ていただくのであればもう不安はない、と思う。

 アクセス 


 京都から行く場合、最寄り駅は、市営地下鉄東西線 石田駅となる。
 そこから京阪バス。ただし本数が少ない。かといって歩くには遠い。
 私は、先に平等院に寄ったので、京阪電鉄宇治線六地蔵(ろくじぞう)駅で降りた。
が、そこから地下鉄・バスを乗り継ぐのは昼の短い冬にあってはロスになる。
そこで、タクシーを利用。約10分、810円と効率的。(12年前)
運転手さんには法界寺より日野薬師と言った方が通じる。その名称のバス停付近で降車。

         

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 日野薬師


 少し先に進むと入り口がある。入り口の解説文はよくまとまっている。
 

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  国宝も有する歴史あるお寺なので覘いてみることに。
 当初は天台宗系であったらしく、最澄伝教大師)ゆかりの仏像があるそうだ。それを真言宗醍醐派別格本山として真言宗の僧侶が拝んでいるのであろうか。変な気もするが、そんなことはないのかもしれない。
 思ったよりこじんまりとしている。財政豊かには見えない。
 京都といってもここまでくる人はさほど多くないのかも。(写真は阿弥陀堂)。

 境内を出て、親鸞ゆかりの誕生院前を通っていよいよ方丈庵跡に向かう。

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「方丈石 左800米」という石柱が立つ四つ角に出ればよい。 

        

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   すでに少し傾斜がはじまっている道を先方の山に向かって進む。

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 少し進み、フェンス脇で振り返ると市中の町並みが視界に入ってくる。

 

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 そのどこかに偏屈な長明が心を許した麓の少年の末裔が住んでいるのかも。

 当時の60歳は今の70歳を超える老人であろう。
 「老人と海」に近いものが感じられる。そのあたりの記述を以下に。

 麓(ふもと)にひとつの柴の庵(いおり)あり。
 すなわち、この山守(やまもり)が居るところなり。
 かしこに小童(こわらわ)あり。
 時々来たりて,相い訪(とぶら)う。
 もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。
 彼は十歳(とお)、これは六十(むそじ)。
 その齢(よわい)、ことのほかなれど、心を慰むること、これ同じ。
 
 日野野外活動施設を左に見ながら歩く。
 だんだんに道が狭くなる。(写真)

 

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 手を使うまで険しいことはないが、傾斜のある登山道といっておかしくない道。
 途中から馬・牛の通行は無理と思われる道幅となる。
 きこり道の部類になる。

 

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 さほど時間を経ずに大きな岩の下に着いた。これを方丈石といっている模様。

 岩には腐りかけた方丈庵跡探訪記念標という木柱が立てかけてあった。

 

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 水墨画的発想からすれば、かような巨石の上を方丈庵跡としたいところであろう。

 上には二つの石 碑がある。左はライオンズクラブが建てたもので、内容はどの本にも書かれているもので特に新規性はない。右は500年以上たってからの江戸中期のものらしい。

 

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 突き出した岩の上であり、ロッククライマーならいざ知らず、普通の者には 精神的に落ち着けないのではないか。
 この岩あたりの雰囲気を知るため少し上部から撮って見た。

 ある程度の期間、住もうとする者が果たして狭く、視界も聞かず寝ぼければ転落するような場所を選ぶだろうか。

 

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 巨石下部よりさらに下の沢まで降りてみる。
 涸れ沢でなく生きている沢だ。
 こんなに近くに清水があるなら筧を引っ張る必要もないのではなかろうか。

 

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 大木はなく、細い木の倒木も目立つがなぜだろう。出水による土石流か、強風によるものか。
 土壌はしまりにくいものである。岩もはがれやすそうな積層状のものが目立つ。

 長明は軒の近くに林があるから薪に使う小枝を拾うに乏しからず、といっている。
 が、これは逆に近くまで行かなければ林がないこと、すなわち一定の距離あることを意味するのでは。
 跡地は林のど真ん中。表現と異なるものを感じる。1216年当時の住居跡と判断するのは難しいのでは。

 

ブログ開設のご挨拶

初めに

 片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず

芭蕉ではありませんが私もさすらうことに思いを寄せる人間です。

最後の清流四万十川源流、方丈庵旧跡(不正確と思います)も見に行きました。東京都心にもいいところはあって、例えば目白通りの胸突き坂(文京区)はなかなかのものです。

 山も槍ヶ岳北鎌尾根、谷川岳マチが沢、前穂高北尾根,明神岳主峰東陵など少々登りました。

車やオートバイによるツーリングも行いました。

しかし何より深く感じるのは自分の足による長距離の旅です。量が大きくなると質変化に及ぶようで物見遊山を超える精神的な何かを与えてくれます。

 2013年の四国歩き遍路1200キロはかけがえのないものになっています。

千年前の菅原孝標一家の千葉・市原の国府から京への旅にも通じるものを感じます。

更級日記源氏物語より深い普遍的な感動を与えるものであると思います(私見)。

それだけでなく、当時の唯一の実録として考古学や歴史地理学への貴重な一級資料になっている点でも特筆に値するものになっています。

「予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて」孝標女が歩いた古代東海道をフォローしたくなりました。

 といっても最近はやりの東海道53次の旅のようにはいきません。江戸開府600年前のことです。資料がほとんど残っておらず古代東海道は考古学や歴史地理学の対象になっていることを知り驚いている状況です。

私はまさに赤子状態。どんな資料があるのかその点から始めないといけません。前途多難です。

ただ、上総の国府(千葉県市原市)の隣の自治体に住んでいてそのあたりはいつでも行けること、また次の下総の国の国府があったとされる千葉県市川市は私が子供の時から住んでいたいわば故郷なので土地勘があります。したがって更級日記に出てくる古代の上総、下総二国の土地については一定の基礎的理解ができている点で助かる点があります。

次の武蔵の国についても東京ですから学校、職場歴からして一定の理解はできます。まあ、千葉、東京、神奈川は何とかなりそうですが、その先は土地勘等ゼロ。まさにお先真っ暗という状況です。

 

出発点となる市原市更級日記に対する思い入れは極めて強く、これほど心強く感じることはありません。

復元してある上総国分尼寺はまるで平城宮跡を思い出させるほどの立派さです。一地方都市でこれほどのものを作るというのは経済力があるのでしょう。サッカーのJリーグも持ていますからね。

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