古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

久保純子著 「東京の自然史を歩く(創元社) 」絶賛

 

読売の書評で目にした本。

実際に目を通してみたがかなり良かった。

わかりやすく、読みやすく、他書にない優れた内容を持つ良書だ。

 

著者は久保純子という方。

原発メルトダウンの時だったか、理屈をつけては国外に転出した元NHKのフリー女子アナとは異なる人。

 

名著「東京の自然史」著者故貝塚爽平(都立大名誉教授)の弟子で(早大教授)、タイトル名もそれにちなむそうだ。

 

 

・カラー図版、それもこれまで目にしたことがないような新たなものが多く理解への有力な手立てとなっている。

・巷にあふれる東京の坂道探訪といった文系に傾くものではなく、理系的裏付けの内容も濃い文理融合的な本となっている。

 

・はじめに地形学とはどんなものかについての説明がある。

「地形学とは地球表面の形態の性質や形成過程-成因などに関する科学であり、地形が読めることは地理学、地質学、資源探査・保全、土地利用計画・建設・防災・自然保護、旅行や登山、社会科・理科教育などに必要なこと」と貝塚博士の言葉を紹介している。

 

私自身、地形に興味を持ったきっかけはルートが全く分からない古代の道、街道を考えるとき地形が有力な手掛かりとなると知ったからである。

上の定義からすると「旅行、社会科教育」関連ということになろう。古代東海道ルート、更級日記のルートを考える手立てとなることからすると広く「歴史学、文学」を考えるにも必要なことといえよう。

 

・本書は「台地」「低地」に重きを置き、ページを割いていることが私にとっては極めて好印象。

「ここにいてはだめ」の江戸川区の発言は東京低地を踏まえてのことであるが、これほど東京低地のことがはっきりする本を他に知らない。

 

台地についてはそれ以上に詳しく有用だ。東京南部は大きいくくりで東から下総台地、東京低地、武蔵野台地の三部構成となっているが日暮里から西進するとして結構台地には入江も入り組んでいてわかりにくいので助かる気がする。

 

私は更級日記のルートについて、下総台地西側(市川市真間・国府台)から東京低地の微高地に入り

(江戸川区小岩)、日暮里駅西側(武蔵野台地東端)に進み台地南端を京に向かって歩いたと考えるが、本書(43p)には上野台、本郷台、麹町台、麻布台、高輪台、目黒台と図示されており理解の助けになる。

 

 

・東京低地というと文化・歴史とは無関係の不毛の低湿地であるかに思われるが、「低地の微地形と歴史時代の変化」は案外そうではなかったことを教えてくれている。

何しろ正倉院には721年の当地の戸籍が残されているのだ。

下総国葛飾郡大嶋郷戸籍だ。 島俣里、 甲和里、中村里という三つのムラ(里)名が記されている。

島俣里はあの柴又帝釈天あたり、甲和里はJR小岩駅の小岩に相当する。

あまりに低地という言葉に幻惑されすぎてはいけないということも教えてくれている。遅くても古墳時代にはかなりの人的結集があったということになる。

東京低地の遺跡と地形(94p)、95Pの図はとても有益。



 

 

・終わりの方に「博物館を訪ねる」という章があって

東京には150以上の博物館があるが、第4紀の地層や地形を含む自然史博物館がないことを憂えている。群馬、千葉、茨城、埼玉、神奈川県にはあるのに、と。

東京都は何でも優れていると錯覚している人が多いけど、コンクリートだらけの上野動物園をはじめ遅れている施設も少なくないです。

・あとがきで本書の刊行にお世話になったと芳賀啓(はがひらく)氏へ感謝を述べているが、偶然にも私も一ツ橋の千代田遺跡について氏を紹介している。

 

千葉県立中央図書館入口わきに貝塚?

千葉市中心部分に古い歴史が詰まっているような高台(地名は猪鼻あるいは葛城という)の東端下を通る狭い道がある。

  この道はほとんどそのまま進めば市原市(上総の国)に連なる。高台の反対側(写真左側)の数キロ先は東京湾となる。

 

私はこの道は奈良平安時代の古代東海道と思っている。

逆方向から撮った写真がこれ 

                           

もう少し拡大し、明治初期と現代を比較するのが次の地図

理由は京へ向かっての直進性と最短性。岩のない千葉県では海岸は浸食あるいは流出する土砂で歩きやすい浜辺のルートとなっているはず。話は飛ぶが空海も道のない四国を歩くとき海岸伝いの道を利用したと言われている。

ところで、上の写真で左に曲がる道が見える。

坂道となるが先は県立の文化会館、角左に立つのは県立中央図書館。

                               

赤いネットが見える。何の工事だろうと近づいてみた。

                                       

法面を掘り起こしたのであろう土表面に多数の貝が見えている。(2024.9.1)

なんだろう、こんなところにと、上の方を見るとそこを含めて多数の貝が散らばっている。                                         

                                       

もしかして貝塚?持ち込まれた残土?それとも海岸で見られる単なる死去した貝殻の集積?

台北方には有名な加曾利貝塚もあるし。縄文人が食した貝を捨てた名残かもしれない。

だとすればロマンがあって嬉しいが。

付近の地図を拡大してもう一度。

                                        

 

たかが貝塚、されど貝塚

 

 東京湾沿いに貝塚は多く、特に千葉県に多いと聞く。

比べて東京には相対的に少ないが人口の集積が多く文化人?も多いだけに注目度は高い。例えば、

 

天王寺貝塚

JR日暮里駅近くの谷中霊園外側の鉄道沿いにキリスト教墓地があるが、墓地より線路にかけて貝殻の散布が見られると本に載っていた。

渚に堆積された縄文時代貝塚として学会の注目を受けたこともあったそうであるが、煙滅状態のようで実際見に行ったが貝殻一つ見られなかった。

           

                                               

丸山貝塚                                  

 

都心、東京タワー近くには芝丸山古墳と丸山貝塚がある。こちらも貝殻一つ残っていない。解説を読むだけ。 

   

                                                                                               

                                                                 

                                       

何といっても欠かせないのが大森貝塚だ。

 

何しろここ、縄文時代のゴミ捨て場は日本考古学発祥の地となったのだ。

E・S・モース大森貝塚の発掘及びこの一節は有名だ。

「横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行ったとき、線路の切り割に貝殻の堆積があるのを通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当の「貝虚(虚の左に土編がつくのが正しい文字)」だと認識した。

私はメイン州の海岸で貝塚をたくさん研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた」

  日本その日その日(Japan Day By Day)

 

貝塚と地表高度    

 ところで かっては 貝塚は台地上にあるものと見られていたようだ。昭和41年発行の杉原壮介の薄い冊子「加曾利貝塚」(写真右)では冒頭に「現在、千葉市内には約45か所の貝塚が認められており、それらはすべて台地上で、東京湾に寄りに分布している」と書かれている。

 その後20年経過後の発行になる加曾利博友の会誌「貝塚」5号では貝塚遺跡は台地上の台地山林畑地から見つかるものという従来の概念を覆し、台地下の支谷のへりなど低地から貝塚遺跡が出現するという新説の報告として武田宗久氏の「二つの低地貝塚」という論文を掲載している。(昭和63年12月)     

  

                                                                     

 日本の古代遺跡32東京23区(保育社)は良著と思うがで著者坂詰氏はE・S・モース大森貝塚の発掘について紹介・説明し、次のように書いている(昭和62年発行)。

 

貝塚は、標高10m以内の洪積丘陵の斜面下部にあり、一部が沖積地にまでわたっている。

縄文時代前期後半の居木橋貝塚が標高20mの洪積丘陵上の平坦部に存在するのに対して、このような後期後半の大森貝塚が標高の低い地に形成されていることは、海岸線の後退状態を、具体的に示す資料として認識されよう。

 

 昭和62年ころから低地貝塚が認識されだしたということか。

千葉県立中央図書館脇法面の貝殻が貝塚の徴憑なら、その範疇に入ることになろう。

明治期の迅速即図は等高線が入っているのでとても助かる。

 

 判断は?

さて、貝塚?持ち込まれた残土?それとも海岸で見られる単なる死去した貝殻の集積?か

宙ぶらりんはすっきりしない。そんな折、格好の催しがあることを知った。これだ。

令和6年度 千葉市遺跡発表会

            2024.9.29開催

 

                                     

 報告者は、大学講師、市の埋蔵文化財調査センター、県の文化財課、公益財団の方と充実している。

 開演前に某男性に話をしたところ、貝殻の集積状況を聞かれたので写真を取り出し、お見せしたところ、関心を示され「場所的に(貝塚が)あっておかしくない。場所はわかるところなので今度見に行く」とのお言葉をいただいた。

 

 

地元の歴史と地元の人の眼差し 永井紗耶香と武田宗久さん v2

日ごろ、歴史を題材にした小説を書いている永井紗耶香さんの随筆「石碑に思う市井の人々」にとても共感する。(2024.12.4読売夕刊)

 

それはこの部分

いわゆる政治の中心ではなく、時の権力者でもない人物について調べるときは、郷土史を読むことも多い。

研究者は、地元の大学の先生ということもあるが、長らく当地で学校の先生をしていた方や、図書館の司書、役所の職員などをしていた方もいる。彼らのまなざしは愛情深く、そして同時に、その地に長らく住んでいなければ分からない土地勘や、独自の視点があり、読めば読むほど面白い。

 

永井さんと同じことを言う大学の先生もいたし、真実のことと思う。

 

その例に当てはまる人がいる。一介の公立高校教師であった武田宗久氏だ。今や国宝に当たる国の史跡に指定されている加曾利貝塚だがその地域が乱開発で棄損されかけていた時の周囲への働きかけが超人的だ。

 

氏は当時の市長にこう説明したそうだ(昭和38年)。

「加曾利貝塚は千葉県が誇る最大の文化遺産で、これは弥生時代の登呂遺跡(静岡県)、古墳時代仁徳天皇陵奈良時代平城宮跡(奈良県)と同等の価値を有するもので、いわば日本の四大遺跡の一つである」

 

昭和39年には本格的な学術調査が開始されるに至っている。団長は早大の滝口宏、副団長は慶応の清水潤三と明大の杉原壮介と錚々たるメンバーだ。

 写真は左から清水、滝口、杉原の各氏

 

 

地元民の熱き心が人を、国を動かしている。

 

 

*千葉県庁という「役所の職員」にして考古学研究者であった平野元三郎氏は武田氏を”考古学の殿様”なるニックネームをつけていたそうだ。

甲斐武田氏の末流で現長南町に逃れてきた庁南城主武田豊信の子孫とのこと。

平成13年3月3日逝去

 

*参考 加曾利博友の会誌「貝塚」ナンバー1~10 

    写真は№8から引用

新聞の片隅に考古学者逝去の記事

 松木武彦(まつぎたけひこ)さん

どこかで聞いたお名前

そうだ,以前、前方小円墳を作ってレポートにまとめたとき参考文献として挙げた本の監修者だった。

 誉田亜法子「知られざる古墳ライフ」

まだ62歳

 

若いのに。

 

確か岡山大時代からかなりの著作をなし、関東に来て書くものに変化も見られた気がした。

「おどろく」の意味

 古文に登場する「おどろく」は「ハッと気がつく」や「目が覚める」と解釈するよう教わった。その意識していなかった物事にはっと気づくことが「びっくりする」の意味を生み出したようだ。

こう語るのは篠崎晃一教授*

東京女子大教授 20240809読売新聞:方言探偵団

 

 そうかな?

現代でも「ハッと気がつく」や「目が覚める」の意味で使われているんじゃないの?

 これ、某新聞に連載された文章の一部

ある日、新聞の地方版で千葉市南隣の市原市上総国国分寺があり、古文の教科書で目にした更級日記著者・菅原孝標女一家の上洛の旅がその近辺から始まること、古代の東海道終点は日本橋ではなく現東京低地、千葉県を経由して茨城県に至っていたと知って驚いた

 

 まさに「ハッと気がつく」や「目が覚める」の意味ではないか。

 ちなみに元原稿は小生

「日本 平安時代 源氏物語 そして歌」

日本 平安時代 源氏物語 そして歌」という何とも不可思議なそれでいて魅力に富む作品名が書かれている雑誌が目に入った。

私にとっておよそ縁のない、まず手にすることのない「文学界」2024年8月号だ。

 

 

パラパラッとめくるとなんだかやけに緻密かつ量的にも濃い内容。

執筆者は高橋睦郎(むつお)というが知らない人。

立ち読みで目に入り、そして引き込まれることに。

 

「独断と偏見ですが」と前置きして次のような流れで書かれている部分を紹介しよう。

 

すぐれた芸術作品はそのものの頂点を描きながら、同時にそのものの終焉をも描いている。

ヨーロッパの例でいえば

近世の植民大国スペインのベラスケスの絵画

近代ブルジョワジー成立期フランスのロダンの彫刻

近世と近代のはざまハプスブルグ・オーストラリア帝国のモーツアルトの楽曲

プロイセン・ドイツ成立期のニイチェの哲学

 

日本の例では

小津安二郎の映画東京物語

 

同じ意味で「源氏物語」は平安時代日本の公家社会を光源氏というその社会の要にいる主人公に肉化して描くと同時に崩壊を予告している。

 

なぜ紫式部にそれが可能だったか。

彼女に才能があったからではあるがその根に藤原氏全盛の世でありながら同氏傍系のランク下の受領階級の学問の家出身で、おまけに女性に生まれたという鋭い劣等感があったのではないか。

その劣等感が極まったのが、道長の懇望により,その娘、中宮彬子付の女房になったのち、道長に戯れ半分に言い寄られ情を通じたあと、当然のことながら見向かれなくなったことではないか。

道長紫式部への戯れの理由は,かほどの男女の感情の機微に通じた女性の実際の閨事はどんなものかという程度の興味であっただろう。その結果はいささか薹(とう)の立った文学少女を抱いた程度の感興でしかなかっただろう。

いきおい以後の道長紫式部への態度は、表向き敬意を払ったよそよそしいものになる。自意識の強い紫式部はその経緯がわかるだけに、やり場のない屈辱感に苦しむことになる。

 

その吐け口が執筆中の源氏物語の主人公が盛りを過ぎた寝取られ男になり、しかも生まれた不倫の子をわが子として育てなければならないみじめな境涯への転落となる。

 

あからさまな復讐であるが結果として源氏物語は文学作品として深まっている。

 

 

高橋睦郎は詩人、歌人俳人とのこと。そのせいで私にはなじみがなかったが詩歌分野では各賞受賞の高い嶺にある人で芸術院会員。

また、この文は去年3月フランスでの講演のもの。そのせいで世界史との関連も内容となり、それも斬新に思われる理由にもなっている。

とにかく幅広い教養の持ち主。86歳で海外講演をするとは恐れ入る。

多和田葉子のややもすると言葉遊びになるのと比べ底深いものを感じる。

冷泉家当主夫人貴美子氏と美しい字

 冷泉家800年の「守る力」(集英社新書)を手にした。

著者は冷泉家24代為任の長女冷泉貴美子氏(1947年生れ)。夫は婿として迎えた25代当主為人。

わかりやすく構えることなく中流公家の歴史を教えてくれる良書と思う。

(俊成、定家)以降、冷泉家はひとりも天才を生まなかった。定家を超える人は誰もいなかった。

これが、わたしは今日まで25代も冷泉家が続いてきた大きな理由だと捉えています。」の一節は深い。

 

テレビや映画の時代物のドラマでは、よく夫婦愛や家族愛が描かれていますが、公家や武家にとってはほとんどありえない話

 家族ではなく一族郎党という意味でのファミリーというイメージはあったかもしれないが」、

との節には例えば橋田寿賀子の描くNHK大河ドラマの脚本が変だなと思っていたのでと

ても納得がいく。

 

この本とは関係ないが2007年11月の公開日に冷泉家の見学に行ったとき、たまたま庭で

販売されていた冷泉貴美子氏の別の本を購入したのだけどその表紙裏に書かれていた氏

の署名があまりに見事で空海の真筆を超える感銘を受けたので下に引用紹介したい。

 

               

 

 

 

 

 

 なお、冷泉家800年の「守る力」に戻るが貴美子氏は母布美子氏の字について語って

いる。

 

「料理も掃除も洗濯も下手。家事はなにをやっても手際が悪くぐちゃぐちゃ」「ところが字はなぜあんなにじょうずだったんだろうと思うぐらい見事でした。」「今はやりの書道というと、わざと墨をかすらせたり、字の形を大きく変えたり、それこそ個性がありすぎて受け入れにくいのですが母の字はほんとに素直」と絶賛している。

いったいどんな字だったんだろう、見て見たいと思う。

紫式部の娘

 平安文学の権威、福家俊幸教授の本「紫式部・女房たちの宮廷生活(2003年平凡社新書)」に目を通した。

             

 

平易な読みやすい文章であるが小説家ではなく大学の先生らしく、深くかつ実証を忘れない態度を感じる。題名はちょっとイマイチの感じがするが。

 

 本質から外れるが気が付いた雑感的なことを少しばかり。

15年前の2008年は源氏物語千年紀の年で世の中の源氏物語ブームは大変なものであったらしい。そして来年2004年は紛れもなく再度、源氏物語のブームが来るだろうと予言している。理由はNHK大河ドラマ「光る君枝へ」(大石静脚本)が放映されるからと述べる(あとがき)。

 そのとおりとなっている。源氏物語、いやもっと広く平安時代そのものがブームとさえなっている。15年前と異なり動画で扱われることがとても多いのが現代的な特徴ともなっているようだが。

 へー、そうなんだとちょっと心にひっかかった箇所があった。

紫式部の娘のことだ。

紫式部は生年も没年も不詳、名前もわからない。しかし娘、大弐の三位(だいにのさんみ)の名は藤原の賢子(けんし)とはっきりしている。

賢子は母と同じく彰子の許に出仕しているが、後年、彰子の妹が後朱雀天皇との間に生んだ親仁親王の乳母になっている。この人事は女院として後宮で隠然たる力を持っていた彰子の差配であり、長年自分に仕えてくれた紫式部への、彰子からの感謝のしるしであったと考えられると書いている。

親仁親王は後に即位して後冷泉天皇となり、賢子は三位の位に上がる。当時、天皇の乳母になるというのは中流貴族の娘が多い宮仕え女房にとって最高の栄達であったらしい。

教授は紫式部が早くに父を喪った娘を見事に養育するとともにその輝かしい人生のレールを敷いていたのであり、物語り作者であるだけでなく有能な「女房」であり、「母」であったことも見逃すべきでないとする。この視点がいい。

 

 

*なお、三位の位とは大変な高位のようだ。何しろ伝統的貴族の一員であった大伴家持(?~785年)は745年に従五位下に昇って746~751年越中守を務めている。

紫式部が育ったという(ほんと?場所だけであろう)蘆山寺に行ったことがあるが整頓が行き届かないお粗末な感じがした。

*少しだけ、更級日記源氏物語に関する記述もある。

雑誌「なごみ」と定家、冷泉家

当方、茶道には全く関心がなく、今後も同様であるが、ある日何気なく雑誌の陳列棚を見ていたら表紙に

特集 定家様【ていかよう】、その書と力

と大きく掲げるなごみ【2月号】という「茶のある暮らし」を提唱する雑誌があった。

思わず手に取ってみるとそれが極めて秀逸

定家の業績、生きてきた時代、交流をわかりやすくきれいにまとめてくれている。

それに定家の公統ともいえる冷泉家のことも4ページにわたって紹介している。

現当主の冷泉為人【入り婿】・貴美子夫妻には子供がなく後継者には野村渚さんが決まったとは聞いていたが彼女についても詳しく紹介している。

 

今800坪の敷地に新たなお蔵を建てつつあるが国の補助金をもらえないことになってもコンクリートを使わない厚さ40センチの土蔵にするそうだ。

理由はコンクリートが100年を超える長期保存にどれほどのものか不明。鉄筋は50年で朽ちる。コンクリートは密閉性が高く機械換気設備にランニングコストがかかる。現御文庫は400年の実績があると。

 

更科日記が今日に伝わるのは定家が残してくれた写本1冊のおかげ。

その写本は宮内庁書陵部に保管されているが(最近国宝に指定された)その書庫は空調を使わず天気に対応した換気のON/OFFに依っていると聞いている。

空調保管庫が戦争などで電源喪失となったら保存は危うくなる。

 

冷泉家は今なお公家としての矜持を持っている。

なお野村渚さんは先代当主のお孫さん=貴美子さんの姪っ子とわかった。

京マチ子そっくりの妖艶なお姫様だ。

淡交社はさすがにいい本を出す。なごみ【2月号】は買っておくべき本と思う。

人の見る目は公平で大きな書店で売り切れで取次店にあったものを取り寄せてもらった。

更級日記東京の道⓰ 中原街道・洗足坂上から田園調布本町、多摩川へ ― 完 —

洗足坂上中原街道に入り、左折してこのまま道なりに進めば多摩川・丸子橋に至り、「更級日記―東京の道」は終了する。

 

 しかし,どこか歴史性、風情に欠け、また、丸子橋が丸子の渡し位置より北にずれるのが気になる。

 

中原街道は田園調布警察署前交差点Aで環八通りに交錯するが地図を見るとその脇に細めの多摩川につながる道があることに気づく。この道を歩いてみることにした。

 

 

 

 一方通行!(途中まで)を入って直ぐ左手Bに大田区の嶺町特別出張所があるが「嶺」という文字、海抜20mの表示が気になる。



 

 

やや下りの道はあの田園調布2~3丁目の豪華さを競うような邸宅街とは異なって落ち着く(田園調布本町)。

 

 

 

 

 

さくら坂上信号の先、桜坂通りCで小さな案内板を見つけた。区内で旧中原街道の様子を残しているのはここだけと記す(大田区文化財)。これでよかったのだ。

 

「嶺」を下って川の渡しに向かう道という位置づけになる。なお福山雅治のヒット曲「桜坂」はここを舞台にしているとか。

 

東光院(真言宗智山派)北側では4基の古墳(西岡49号~52号)が発見されている。

 

 

多摩川沼部駅の踏切を渡り京浜河川事務所・出張所脇から土手を越える。

 

 

 

 

と正面に丸子の渡し跡。

 

1934年、丸子橋ができるまで利用されていたと知る。

 

 

 

ふち迄歩き、水面を見てホッとする。



右(上流方向)に丸子橋を見る。さほど離れてはいない。

橋の先に田園調布古墳群の緑の丘が見えている。

 

 < 更級日記東京の道 完 >