古代東海道 更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

上総の国⑫の2 新皇塚古墳

ドキッとするような名称だ。

紹介する文字情報は多い。

一例

ここにあったとされる石造物が上総国分寺境内にある。

 

が、新皇塚古墳を明示する写真はほとんど見当たらない。

団地建設で削り取られてしまい、立木以外そもそも遺跡というものが残っていないのだろうか。

現在は市境、古代にあっては国境になる村田川を見下ろすような絶景の角地に立地している。

前は団地との間の急峻な高度差のあるのり面

後と横には民家がへばりつくようにくっついている。

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近づけるのは多分この1ルートでは?

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上総の国⑫の1 姫宮古墳

姫宮という乙女チックの名称に惹かれる。

車で行く場合、みどりのは葉記念病院の脇からその名も「菊間通り」に入り数分のところにある市原菊間郵便局のところで曲がって入る。

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すでに郵便局の背後に見える森が、暗く、深くなんだかパワースポットというか引き込まれそうなアウラを感じてしまう。

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何の標識、案内もないがこの坂道に入った。なお、平坦に見えるがかなりの急坂。

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道が狭くとにかくわかりずらい。

右前方の木立が怪しい感じ

 

 

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近づき、民家の脇を住居侵入しているような雰囲気で接近。

あった。

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未発掘51mの前方後円墳か。

中に入って歩くことも何とか可能。

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看板の図示だと遺跡が密集し、眼前の県営住宅団地によってすでに数個の円墳、方墳跡が消滅していることがわかる。

 

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もう一遠景を見ると樹木が前方後円墳の形になっているのがわかる。

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上総の国⑪ 菊間古墳群と国造

土木学会論文集D22vol69にある小方武雄氏の次の一説には強く賛同したい。

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直接は神奈川県での古代道について中原街道説ではなく246号説を採る論拠として挙げるものであろうが氏も言うように他の地域での比定にあたっても十分に根拠となるものと考える。

更級日記古代道のルートで上総から下総にわたるゾーンで重要なものが現市原市菊間町にある菊間古墳群であろう。

その中身に入る前に今回数度にわたって訪れて驚いたのがいまだ手つかずの前方後円墳が至近距離にいくつもあることだった。

浅学不勉強な小生、明日香村に行かないとこんなことはあり得ないと思っていたが東京から遠くない千葉市南端に隣接するところに古墳がゴロゴロしているとは全く知らなかった。

このゾーンはぜひとも乱開発される前に自治体で買い上げ等の処置を講じてほしいと思う。

まずは航空写真から。

狭いところにいくつもの古墳が。

 

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この古墳については以下の市原市埋蔵文化財調査センターの解説がわかりやすい。

(以下引用)

  菊間古墳群には現在もいくつかの古墳の墳丘が残っており、墳丘の測量調査が実施されているほか、部分的な発掘調査が行われています。現時点でわかっているだけでも、前方後円墳3基(北野天神山古墳・東関山古墳・姫宮古墳)、前方後方墳1基(新皇塚古墳)、円墳13基、方墳33基、と総数50基にのぼります。古墳群周辺の発掘調査では墳丘を失った古墳が多く見つかっているので、もともとは大小織りまぜて台地上にかなりの数が展開していたようです。

 

また、国造、菊間の国については以下に

(以下引用)

 ククマのクニノミヤツコ
 文字に記された歴史より昔、いまの市原市にあたる地域には上海上(かみつうなかみ)と菊麻(くくま)のクニがありました。上海上養老川流域、菊麻を村田川流域に当てるのが定説となっています(この地名と同じ音は8世紀はじめ成立の古事記に記された「玖玖麻毛理比売ククマモリヒメ」という人名にも見らます。ククマがどこかの時点でキクマに変化したのでしょう)。
 このククマの地には、のちの時代に国造(くにのみやつこ)と呼ばれる有力者がいました。それは国造本紀(こくぞうほんぎ)という古文献に記された各地の国造の系譜に名前のあることからわかります。菊麻国造は大鹿国直、上海上国造は檜前舎人直(ひのくまとねりのあたい)とされており、国造本紀が編集された7世紀の時点で、各豪族の主張する系譜にある人名が採録されたと考えられています。

上総の国 ⓾ 菊間・村田川へ

さて、山木交差点から先、どう進むか。

左折し、八幡地区へ進み房州往還道を進むとするのが多数説かもしれない。

ここで道路技術系研究者の発言も頭をよぎる。

一は、武部健一氏(元建設省道路公団)の「高速道路と古代道路の共通性というものに気づき~

 (古代の道 吉川弘文館2004年)

一つは、 元神奈川県県土整備部長 小方武雄氏の次の記述

 「今までに採用された視点に加え、新たに古墳や地域の豪族、延喜式に掲載された式内社、直線道路のさらなる活用などの視点を加えて検討を行った。

 (PDF資料 神奈川における駅路に関する一考察)

 

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結論から言うと自説は古墳や地域の豪族菊間国造、直線道路のさらなる活用、村田川以北で選択するルートなどの視点を加えて高速館山道に沿う次のようになった。

以下続く

 

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上総の国 ⑨ 光善寺廃寺

山木三叉路から入るとすぐ297号道路左側に光善寺の看板が目に入る。

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光善寺廃寺と現役光善寺の併存のせいであろう。

国分寺も本来は同じはずだが。

左折して5~60mくらいで左側に階段状の入り口がある。

 

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昭和期再建?の薬師堂

これが更級日記の記述に対比される。

 

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上総国分寺より前の時代の瓦も発掘されており歴史・考古学の研究者が取り上げる重要な事項のようだ。

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由緒正しくても固定客のいない旧跡の維持は大変そう。

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敷地は狭く、裏側の土塁状箇所は危うい(阿須波神社の崖もそうだ)。

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国道の反対側(西側)は低くなっておりその先が高台になる。その一角、見えないが写真の左方向に阿須波神社が位置する。お隣さん同様か。

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上総の国⑧ 阿須波神社と光善寺廃寺 V3

上記社寺を上総国府位置比定の根拠に掲げる研究者が多い。

津本氏が紹介する鴇田恵吉(ときたえきち)氏の言説は次のよう。

阿須波神は万葉の歌から国府の庭にあったと考え、上総国府を市原台地と想定し、更級日記の薬師堂は光善寺薬師如来縁起や柳楯神事から推して光善寺の薬師堂と判断。

この薬師堂の背後にある御手洗井を、更級日記の「てあらい」などした場所とみて、国司の官舎は光善寺後方の字、要谷であろうと提唱する。

 

国道297号大多喜街道、東京に向かって左側の台地の際にあるのが阿須波神社、道路右側にあるのが光善寺だ。

 

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 阿須波神

グーグルの航空写真はこうだが道は狭く、案内表示などなくてわかりにくい。

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 297号から入るポイント地点はここ。表示は全くなし。

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下の条里制遺構の端を歩く道だとここから入るがここも気が付かない。怪しいと思って登ったらそうだった。

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遠く防人に赴く人を待つ歌

 

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条里制遺構、高速館山道、その先に湾岸の工場街が見える。千数百年前は海と富士山か。

 

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台地下の道を進む場合の雰囲気を。

自動車がほとんど通らず心地よい。

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神社のあるところで下の道から仰ぎ見ると。

2019年秋の台風で崖が崩れそうになっていた。

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保全しておかないと万葉遺構も危い。

少し先に遺構の表示が。

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横切って海方面に進む道を指しているのか?

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 私は直進したい。すぐ先で山木三叉路に合流する。

上総の国⑦ いまたちと進行経路

 受領の赴任旅行にあたっては、吉日に吉方に向かって家を出る出門と実際に吉日に旅を始める進発の2段階のステップがあるとのこと。

更級日記では、9月3日に「いまたち」に移り、15日に平安京に進行を始めている。

 では、「いまたち」とはどこ?

 ここでまた論争が激しく、佐々木虔一氏(古代交通研究会副会長)は8説を掲げ、八幡の飯香岡付近の砂丘上説を採る(房総古代道研究14頁)。

山路直充氏は飯香岡八幡宮が所在する八幡宿に推定していた立場を五井(現養老川右岸)に再推定し、八幡宿については飯香岡八幡宮も含め、中世国府との関連でとらえるべきではないかと論及する。

氏が掲げる地図は以下のとおり

 出展 房総の考古学(史館同人編 六一書房)

 

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私は今後の進行ルートを考えると、わざわざ、田畑の中を通り(現条里制遺構)、海岸付近まで行く必要に乏しい気がする。

今でも歴史が濃厚に詰まっているような感ある光善寺廃寺、阿須波神社付近で終わる台地を下り、そのまま北上したのではないか。

 

 なお、傾斜地、台地のすそ野に並行するように走る道にはなぜか古い道が多くみられる。

次回、阿須波神社探訪と合わせてその雰囲気をお伝えしたい。

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 現在の道路と照らし合わせた国分尼寺から先のルートは次のように考えたい。

南の国分寺通りを道なりに北東に進むと297号大多喜街道にぶつかるが、その手前あたりに稲荷台1号古墳がある。ここは有名な刀剣が発掘されているところでぜひ立ち寄りたい。

 

 山木交差点に向かって297号で進むのも悪くないと思うが297号に入らず手前の稲荷台通りで北北西に進み、舘山道の手前で右折して向かうのもよいのではと思う。

稲荷台通りは一部発見されている古道に重なるところもあるやに聞いているし。

 

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