古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

更級日記 東京の道 ⑭  大井町駅から洗足へ 

JR大井町駅西南域(大井1丁目)から中原街道へ向かうとしてどの道で?

多摩川丸子橋へ向かうのだから斜め左下(西南)に向かうのが合理的。

現状の地図上からはカメラ工場にちなむ光学通りが候補になるが新設の道かと思えるような名称でちょっと?だ。

だが、明治初期の迅速測図を見ると駅そばからほとんど現状と変わりない道として存している。

 

さらに後述する諸点は十分な補強になると思われ、この道を選択することにした。

右に光学通り入り口が見えている。

逆方向(駅側)から見ると左に入り口

街歩きの良さ。予期せぬ光景

 

 

ここら辺はかってのニコンの工場街か。大井はソニーニコンというトップ企業が

あった町ということになる。

両脇は下り坂であり、尾根道であることがわかる。

 

光学通りを進み、横須賀線西大井駅南側の踏切。高架はあの東海道新幹線

 

すぐ先にあるのが公園と伊藤博文公墓

 

明治以降は皇族も含めて円墳が多いような気がする。

地図で道が行政境になっているのがわかる。ここはまだ同一区内だが。

 

脇を見て尾根道であることを実感。

 

二股に分かれるが右道に立つ建物は明優学院高でここら辺から道路北側は品川区(西大井→中延→旗の台)、南側は大田区(馬込)となる。古い時代、道が行政管轄の境界となり両側で村名や大字名等が異なることが少なくない。

 

    大通りに出た。国道1号(第二京浜)だ。

1号を横切る。官道の特徴、直線の道が環七・長原駅入り口交差点前まで続く。
ここは右(北)は品川区中延6丁目、左(南)は大田区北馬込2丁目となる。中延6丁目で品川道に関する立派な道標を目にした。

 

 

 

武蔵国国府であった府中と中世からの港湾都市として栄えた品川を結ぶ道」と記している。古代から中世、近世に至るまで活用されていた道であることを示すものと考える。


この地図も分かりやすい。江戸時代の状況になるだろう。

 尾根道らしさについては何度も述べているが、諸所でぶつかる四つ角で進行左(大田区側)を見ると相当の急坂で歩く人の姿がすぐに見えなくなることもある。

千年前は相当な山道だったのだろう。

なお、道幅6m位の一方通行部分が多いが現代の公衆道路で1車線・一方通行路を作ることはまずない。古い歴史があり、壊し難い街並みであることの証左であることも多い。官道と言っても平安期になり国衙から遠いところで道幅6mは珍しくない。

 

 (この項続く)