古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国⑦ 南生実橋から千葉寺駅前リブレ京成まで V2

前回の南生実橋交差点風景の写真には廣照寺が見えている。

この先、右側にある八剣神社、埋蔵文化財調査センター、大覚寺山古墳についてはすでに述べているので省略。

道の雰囲気をお伝えする写真は次のとおり。基本的に台地の周縁に沿って進んでいる。

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生実町5差路を過ぎ、左に見えてくるのが本満寺

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雰囲気はよかったが人気がなく、鐘楼も建屋しかないのが寂しい。

 

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 このお寺のすぐ先に見えている3階建てコンクリート?が大覚寺

謂れを記す案内板は傷んで判読不明。

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大覚寺の先すぐに生実池交差点があり、生実池が見えてくる。

大百池同様、かなり大きな池だ。

 

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生実橋を通過すると右手の台地が見え、迫ってくる。

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直感的に怪しさ、気配を感じる。

少し先に行くと県立学校2校の入り口があった。

この時はそれで終わったが、後日この箇所について重大なことを知る。これにつては千葉寺のところで述べたい。

 

高速館山道(またしても!!)の下をくぐり、JR外房線の踏切を渡る。

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このあたり、右側は鵜の森、左側は蘇我町!となる。


そして道路を進むだけではわからず、迷うことになる箇所にぶつかる.

それはここ

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変形Tの字交差点で、左の南税務署方向へ行けば海側。傾斜もかなりあり、

かってはすぐ海だったと思われる。

右に曲がるとそのまま直進してしまうが、それでは内陸部中央に進んでしまう。

地図をよく見ればわかるがかっては☆1から☆2への直線道路であったものが後により広い末広街道が開発されたことにより、それに合わせて分断されたものと推察する。

 こういう道路付の場合、分断された細いほうが旧来の道と考えられ、逆にそのことの立証にもなると思っている。

したがって、右折してすぐ、鵜の森交差点を左折することになる。

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この先も、うっかりしていると間違う。私も二度くらい間違った。

二股に分かれるところで末広街道から蘇我中の下の道に入る。

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そうすれば風情のある由緒正しい怪しいルートになる。

なお、ここは一方交通なので車で来る人は逆方向から。

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 この斜面の緑地帯はかなり続く。海を見下ろす上の部分はどうなっているのか気になり、上がってみると団地街だった。

建設は相当前のようだが当時の埋蔵物関係の記録はないのだろうか 。 

 

 進むとだんだん市街地になっていくが先が見えないくらい遠くまで見事な一直線。

珍しい。

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途中の菰池公園にはSLが展示されている。

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京成千原線千葉寺駅前までやってきた。

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この鉄道の敷設は新しく、建設に伴って駅や線路付近におびただしいほどの遺跡が

発見・発掘されている。

開発に伴い、歴史的遺跡の破壊と発見双方が生じている。

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古代東海道 下総国⑥ 低湿地遺跡「千葉市・神門(ごうど)遺跡」のこと  v2

 大覚寺山古墳を見学して遺跡通りに戻ってさあ、千葉寺へ向かって進もうという段階で意外な展開が。 

下総国①でこう述べた。遺跡にあたるものなどないはずと決めてかかっていたのである。

ただし村田川と浜野川にはさまれたBとC点の間、特に茂原街道(バイパス)北側は2021年現在でも低湿地というか荒れ地状態のところが多く、この箇所の確固たる旧道は認識できない。

( 更級日記に低湿地帯武蔵国の藪漕ぎ描写があるがここ千葉の風景を拡大したような状態であったのかもしれない。)

 廣照寺の手前の南生実橋付近で遺跡が発見されその報告書が1991年に発表されていたのである。

かなりぶ厚い報告書であり、序を読むだけでも意気込みが感じられる。また自然科学的な分析を全国の公的機関や大学に依頼していて珍しくも感じた。「低湿地遺跡」という響きは軽くない。

 

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千葉市では旧跡時代から歴史時代に至る数多くの遺跡が残されているが、(略) これらの多くは洪積台地と呼ばれる台地上や台地縁辺に所在しているもの。今回報告する「千葉市・神門(ごうど)遺跡」は低湿地に所在する」「土器石器等の遺物のほか獣骨・貝類等の自然遺物、それに低湿地遺跡特有の有機性遺物が数多く得られ、失われた過去の生活をより具体的に知る大きな手掛かりをあたえてくれるものものだった。」

 

 

 

 

 

報告書中の写真及び地図による現地場所

 

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地図だと

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当方の用意した地図だと

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改めて現地に行って撮影

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遺跡、調査した痕跡は全くうかがえない。

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現地図書館などに紙資料としてかろうじて残るだけではせっかくの調査が生かされない。須和田遺跡(市川市)のように記念銘板的なものを設置してほしい。橋が架かっているのだからそのスペースはあるだろうに。

 

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以下の地図で古代の官道はここ(赤〇)と思っている者にとって心強い。

なお☆2は八剣神社(☆3)に直行する神門橋。

セブンイレブンがあり駐車場も広いので車で安心して見に行ける。

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コンビニ駐車場から見ると進行右側に台地のヘリが見えている。

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古代東海道 下総国⑤ 埋蔵文化財調査センター、大覚寺山古墳

 


八剣神社を出て、バス通り(千葉中央遺跡通り)に戻って北上。

埋蔵文化財調査センター入り口という大き目な看板があるのでそこで右折。

なだらかな傾斜を進むとすぐに右手の高台に建物が見える。

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資料も展示も豊富で勉強になる。生徒・学生の見学も多そうだ。

駐車場もあるので車で行ける。

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たくさんある掲示の中で一つをあげるとこれ

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千葉市だけで遺跡が1336か所!

旧石器時代の113から始まってこんなにたくさん。

東京湾内地域は遺跡だらけの様子。どうも畿内を特別視しすぎていたのではないか。

係りのおじさんに大覚寺山古墳を訪ねると玄関先に出て「あっちの方角で、すぐですよ」と教えてくれた。

普通の住宅街の中を進むとすぐにこんもりしたお山、そして立て看板。

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別の文書の説明は以下のとおりで立て看板と2か所違っている。
 なお、文中にある七廻塚古墳は今や公立学校の敷地になっている。なんとか保存できなかったものか。下総の国府内(市川市国府台)にある古墳は日本陸軍の基地内であったにもかかわらずに削られず、現在も国立東京医科歯科大キャンパス内にそのまま残っているというのに。

 

生実丘陵から南に派生する小支丘端部に位置し、主軸の方向を稜線に合わせ、前方部が北を向いた主軸長約66m千葉市内では最大規模の古墳です。墳丘の形態は、前方後円墳前方後方墳の両説があります。発掘調査が行われていないため定かでありませんが、墳丘形態、立地等に古式古墳の様相をよく残しており、築造年代は5世紀前半と推定されます。この時期は、南関東に古墳が出現する時期で、東国の古代社会を研究するうえで重要な古墳です。

昭和45年、宅地造成の際に発見され、史跡公園として公有化されています。

後円部に接して径10mの小円墳が所在しますが、陪塚の可能性があります。周辺の台地上にも小円墳が点在し、北東には発掘調査で石製品等豊富な副葬品を出土した七廻塚古墳が所在しました。

 

 ただし大覚寺山古墳は明るく芝山状態で直接登れるなど魅力に富んでいる。古墳とわからなかった時代も現在も子供がそこで遊んでいる。奈良の若草山にも似た雰囲気だ。

未だ掘られていないことも含めて一種の望ましい姿かもしれない。

 

入り口はわかりにくい。

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古代東海道 下総国③ 千葉市中央区南おゆみ野(千葉中央遺跡通り)

 長妙寺の先、茂原街道旧道、同バイパスを横切って直進し、発展途上地域を超えて浜野川に達する。

いくつかの候補の橋がある。仲良し橋、清流橋、御手洗橋もあるが進むルートに直結するのは南おゆみ橋。

渡った先のこのルートの右側はすごい。

後で立ち寄る千葉市埋蔵文化財調査センターからもらった資料に記載されている図はわかりやすく秀逸。

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グーグルの地図で見ると以下のとおり。

なお、グーグルマップはルート探索にとても役立つ。ヤフーマップより格上なことは否めない。

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 この先、現江戸川を超えて東京都江戸川区に入ると東西にまっすぐな上小岩遺跡通を通ることになるが、南おゆみ野からまっすぐ北上するルートはそれ以上の深い歴史性を感じさせるもので○○遺跡通りと命名してもいいのではと一人思っている。

 そうだ、江戸川区の例に倣って千葉市中央区遺跡通り、少し縮めて「千葉中央遺跡通り」と言おうか。勝手なネーミングです。

千葉寺、亥鼻を経、吾妻橋通ってJR千葉駅そば市民会館まで直進します。

 以下続く

古代東海道 下総国② (古市場)高嶋天神社と長妙寺橋

村田川にかかる長妙寺橋を渡る。そこは割と普通に見える町並み。

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せっかく、渡るのだから同じ名前のお寺を見てみようとすぐ右折。

おや、途中、ひなびたいかにも村のお宮という感じの神社があった。

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ところが、

平安時代から続き、千年の歴史を持つという。

しかも菅原孝標5代前の菅原道真本人をまつるというではないか!

ちょっと出来すぎ。

案内板から引用させていただくと

古市場天神社の周辺は、かつては「高嶋(たかじま)」と呼ばれ、これは平安末期から鎌倉初期にかけて、千葉氏の家臣「高嶋恒重」の館があった(菊間館跡または高嶋館跡)ことからと伝えられております。恒重が治承年間(一一七七~一一八一)にこの地に神社を建立し、道真公をお祀りしたといわれております。

 寺社はそれこそ星の数ほどあるが、ほとんどは数百年の歴史。千年に及ぶというのは多くはない。

建立は1177年としても更級日記の150年後だから彼女が知るはずはないが。

 

少し先を行くと長妙寺

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日蓮宗のお寺で創建時は不明とのこと。

高嶋天神社の方がアウラを発散している気がする。

 

なお、村田川の北側は下総と言ったがこの両寺社は現市原市(旧上総国)。どううこと?

24号線にかかる村田橋同様、ここでも河川の流れがかなり変化(南下)しているということか。

 

 

 もう一度地図を。

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 ところで更級日記を考察するうえで (古市場)高嶋天神社と長妙寺橋をまな板に載せる人などいないと思っていたが大著「更級日記の研究」で津本氏は両者を写真と地図に掲げている。何か感じるところがあったのであろうか。ただし、神社は「長妙寺脇の天神」とするのみであるが。

菊池古墳群をあげないで合点がいかないが、昭和57年の発行ということが影響しているのか。

 

古代東海道 下総の国① どこで上総・下総の国境を超えるか V2

上総、下総両国の国境は村田川。

現在は市原市千葉市の境となっている。

古代の人はどこで川を渡ったのであろうか。

古代東海道のルートを房総往還に重ねる人は以下地図中のAとする。

 

 

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ただし川が変化しているので村田橋は埋まり、新村田橋に移っているが。

 A付近を拡大すると

 

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元の河川位置は公園となり、記念の案内板も。

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私は内陸のB付近ではないかと考える。


☆Bあたりとする理由

 囲碁・将棋ではないが、次の手、その次の手と考えていき、それを現在とるべき手(ルート)に還元・選択していくべきではないか。

 歩き旅は点と点を飛び渡るものではなく、連続した線を丁寧にたどるしかないもの。

ある箇所でどうしても甲地点を通過せねばならないならその前に歩くべき線は決まってってくる。それを乙とするなら、その前に歩くところも決まってくる(丙)。

 

 荷物を携えて長距離を歩くのは難儀そのもの。誰でもが、少しでも近道をしたい。

 平地での近道とは何か。最短距離は2点を結ぶ直線性しかないだろう。

高速道路のルート選定と古代の官道がなぜか近いというのもそんなところにあるのではと考えている。

 千葉の河曲駅(駅制)から直線性に留意しながらさかのぼりながら見ていくと自説では☆Cあたりまでくる。

そのあたりは律令制が敷かれる前、菊麻豪族の支配下でもあった地域である。古墳その他の遺跡も連続している。もともと人が往来し道ができていただろうし、そこを官道に指定してもおかしくないと考える。

 

 ただし村田川と浜野川にはさまれたBとC点の間、特に茂原街道(バイパス)北側は2021年現在でも低湿地というか荒れ地状態のところが多く、この箇所の確固たる旧道は認識できない。

( 更級日記に低湿地帯武蔵国の藪漕ぎ描写があるがここ千葉の風景を拡大したような状態であったのかもしれない。)

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その時々の改変が多い、一種刹那的利用がされていた道路だったかものかもしれない。

 次の地図に橋名は出ていないがとりあえず菊間古墳群の真下にある現「長妙寺橋」を渡って千葉市南生実町(みなみおゆみちょう)をめざして北上することに。

ただしわかりやすさの点からは左右の大きな古町橋や古市場橋を渡った方が得策かも。何しろ明治期まで橋はかったのだからこだわる必要はなかろう。

 

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