古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

二つの有銘鉄剣と二人の学者 (その1)

 

白石太一郎氏

 千葉県の古墳についての白石氏の著述が散見されるので、千葉県の文化課、埋文など関係部署の公務員かなと思っていたら歴博の先生だった。

それはどうということはないのだけれど履歴を見ると関西の大学を出て畿内で研究をされていた方。どうして「あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方」の地までやってきたのだろうかと?だった。

 井上光貞氏の招聘があったようだ。井上氏は東大文学部教授定年退官の後歴博設立準備室長を経て1981年歴博初代館長に就任している。井上氏が見どころがあると思ったのであろう。

白石氏もかなり悩んだらしいが招へいに応じ、東国、畿内双方で優れた結果を出しているので本人にも東国の学会にもプラスになったと思われる。

 

井上光貞氏(1917年~1983年66歳)

 そこで今度は井上光貞氏の学者としての経歴に関心が湧き、たまたま手にしたのが上の本(2004年 日本図書センター)。

 井上薫桂太郎の孫として生まれ東京帝大を出て東大教授。これだけをみると恵まれた順風満帆の学者人生かに思われるがそうではなかったようだ。

 病気をしたこともあり、「自分の属している特権的な身分や階級に対する憎悪も」激しくなったようで同級の伯爵の息子有馬頼義(のちの小説家)と共に学習院の中等科を捨てて成蹊高校の尋常科に入っている。(今の弟宮が娘を途中からICUに進学させたのと似たような思いがあるのか。)

14歳で皇族の血をひく母を失い、病気の再発もあって休学もし、帝大文学部国史科に入学したのは23歳となっていた。

 学問上の苦難・努力は学者なら誰もが負うべきものであろうが,氏はあの東大紛争で学校側の当事者になり随分と苦労している(昭和43年)。法学部の故藤木英雄教授、大河内総長、加藤一郎総長代行、林健太郎など新聞で見た名前が出ている。

大学最終講義終了の後のあいさつで、東京大学の教壇に立つことで鍛えられたこと計り知れないが任務の重さは毎日毎日が苦痛であったといっている。

 

武蔵稲荷山古墳の鉄剣銘文

 さて、本論。氏は定年退職後の最大の事件は今のところ退職年1978年に公表された武蔵稲荷山古墳の鉄剣銘文であったと興奮気味にいう。

その理由は氏がこれまで描いてきた古代史像と銘文の内容が一致することが多いことにあるという。そしてその2点について説明した後、他で触れていない3点目として銘文八代の系譜に書かれている文字から次のように言えるとする。

「 5世紀代の天皇は、まだ専制君主ではなくて、国造クラスの地方国家の王たちとともに”国王共同体”を形成していたので、共通に「ワケ」の称号を名乗っていたのである。ワケは「別」とも書くが「血」と「統治権」とを分割するの意ではなかろうか。

 一方5世紀末の第八代目から「臣」を名乗るのであるが、「臣」は6世紀から7世紀中葉までの金石分の人命の書き方に照らしてみると、明らかに「カバネ」(姓)のオミであることもわかった。

カバネは君主たる大王が、この場合なら、地方の国王に授けるものであるから、これまで獲居(ワケ)なるプレ、カバネを名乗ってきた地方の国王が「臣」(オミ)なるカバネを称し始めたことは、いままで「国王共同体」を形成していた大王と地方君主の間に、大王を頂点とする支配と隷属の関係が生まれたことを意味するだろう。

 銘文の内容は以上のように私の5,6世紀像と一致することが多い。それで私は銘文に異常な関心を持ち続けるのである。」(同書298頁)

 

ー 続く ー