大塚初重(はつしげ)さんの「東国の古墳と大和政権」に移る。
2002年、山梨県で公職にあった時の発刊だ。1926年東京都生まれとある。当然載っていないが、今年2022年、お亡くなりになっている。
Ⅲ1「王賜」銘鉄剣と房総の古墳という段章で稲荷台1号墳の鉄剣についてかなり詳しく述べている。
☆ まず、千葉県内の古墳の数が多いことを述べる。
付記で補正されている平成12年の数字では前方後円(方)墳 717基
円墳 6666基
方墳 1042基
円-方不明 504基
約9000基だ。ものすごい数!全国的にも言えることだけど(16万基とか)これじゃ発掘発見してもすぐには詳しい調査はできない。
9000基が県下に均等に分布しているかというとそうではなく、前方後円墳についてまとまりというかブロック化していることを指摘する。(分布図を見れば一目瞭然だが)
東京湾沿岸ブロック
印旛・手賀沼ブロック
香取郡を中心とする小見川・佐原ブロック
一宮川流域ブロック
ここで先月だったかの新聞記事を思い出した。千葉県下の経済ニュースだったと思うが今後の千葉県の効果的な経済発展を目指してのブロック化を挙げていた(うろおぼえ)。
1 東京湾岸エリア
2 東葛地域
3 成田空港地域
2について他県の人は知らないと思うが東葛とは茨城県にも近い千葉県北西部で柏市とか最近脚光を浴びている流山市などがあるところ。つくばエキスプレスが通り、秋葉原に直結して便利になっているし、全国区の組織ー東大柏キャンパス、がんの国立東病院などーが来ている。
一定の理由があれば一定のゾーンに人が集まり、それがさらに他の発展の要因となるというのは大昔も今も変わらない。
☆ 氏は河川の下流域、特に東京湾沿岸に有力な前方後円墳が集中していることに注目し、中央の大和政権は関東から東北を狙う際にこの地域(市原、姉ヶ崎、木更津、君津、富津)を東国を支配するための拠点づくりの橋頭堡として相当に重要視していた傾向があるのではという。
橋頭堡なんていう言葉を聞くと、ウクライナが川の西岸を奪還した後、一部東岸に渡河して国旗を掲げたがそのあたりを橋頭堡として進展していくのではないかと言われていることを思い出してしまう。昔と今、海と川、日本とヨーロッパの違いはあるが本質はかわらないのでは。
★さて、市原市稲荷台1号墳出土「王賜」銘鉄剣について
直径27mの円墳というこれまでの考古学の研究からするとそれほど重要視されてこず出土したものも前方後円墳のものより質と量で劣るとされてきたようだ(氏はよろしくない姿勢だという)。
本品も、他の出土品と共に十数年前に発掘され市原市の倉庫に収納されていたものを調査に関係していた市原市の文化財センターの田中新史さんが研究の過程で佐倉にある国立歴史民俗博物館に持ち込んでX線に撮るなどして大発見に至っている。
(埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣も昭和43年発掘→10年間展示ケース内→昭和53年奈良の元興寺文化財研究所でレントゲン撮影で銘文確認→国宝へ となっていて似ている。
古墳が多い→発掘が多い→人手の関係もあって調査が追い付かないというのが全国的傾向のようだ。)
★被葬者について
氏は次のように言う。
中央の大王家から直接剣を受けるような豪族は前方後円墳に埋葬されるような有力な首長。彼が手にした「王賜」銘鉄剣をいろいろな事情があって彼の配下である稲荷台1号墳の下級の小豪族にこの剣を渡したのであろう。
東京湾沿岸、市原周辺における重層的な権力構造がうかがえると。
そうだろうか。時の総理大臣が遊説に来たとしてもいちいち県警本部長が身辺警護の任に当たるだろうか。ウクライナ大統領が前線で兵士激励のために勲章を渡すのは参謀クラスではなく現場下士官クラスではなかろうか。
そばで実際に身辺警護してくれた若い者=小豪族の一員に渡した感じがする。