古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国⑪ 観音塚遺跡報告書と現況

千葉市観音塚遺跡(千葉寺地区遺跡群)について

 

 千葉寺は12世紀に観音塚あたりからから引っ越してきたという伝承もある遺跡についての報告書である。

観音塚という名称はあちこちにあるようなので千葉市観音塚遺跡と言った方がいいのかもしれない。また発掘調査の進展につれて近接箇所に複数の遺跡がみられているので

千葉寺地区遺跡群とも言うようである。

 

  内容については、次の写真の都市基盤整備公団と財団法人千葉県文化財センターによる平成16年3月付報告書に詳しい。千葉県立中央図書館で閲覧できる。           

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掲載されている観音塚遺跡全景写真は次のとおり。

 

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付近の遺跡関係図は次ぎのとおり。

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当方で2021年春に撮影した現況写真は次のとおり。

整った住宅地に変容し、遺跡跡ということは全くわからない。

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線路の向こう側(西)に集合住宅が見えている。

 

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道路左側は傾斜してくぼ地となり報告書の写真に近い形態のまま公園となっている。

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公園はほぼ当時と変わりがないようなのでそこらへんに遺跡の範囲と名称図を案内したらどうだろうか。古墳=墳墓であり、敬遠したくなる気持ちもわかるがこの遺跡は次のように古代人の生活の場であり住宅地が古い歴史を持つことはむしろ価値向上に連なると思うが。

 

「観音塚遺跡が最も発展するのは奈良時代。前代から倍増して103棟に及ぶ竪穴住居跡があり、注目すべき遺物も多い」「遺物には和同開珎,銅製帯金具、硯、畿内産あるいは畿内系土師器など役人や役所に関連する遺物が目立った」そうです。

出土した「子驛□」の墨書土器は付近に駅家(千葉郡河曲驛)があったことを示唆する遺物である、 とされています。

 

追記 第4図「遺跡の範囲と名称」で図示されている地蔵山遺跡は開発前の写真による  

   と実際に大網街道両側にまたがる小高い丘状の地だった模様。現在最も標高が高

   い道路北側は住宅展示場になっている。

 

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出展はこちら

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