江戸川(市川市国府台)から隅田川へのルートについては書く人が多い。
しかし隅田川を越え、三ノ輪から谷中になると激減(西進)。
谷中から皇居となると江戸時代の資料はありすぎるほどだが古代道となると言及する人はさらに少なくなる。
人が既に書いていることについて書く人は多く、人が書いていないことについて書く人は少ないという社会・人文科学的分野に多くみられる傾向だ。
引用で済ませるが人が多く、自分で考える人が少ない証左かな。
学者・研究者がそうせざるを得ないのはわかる。小説じゃないのだから合理的根拠なしに勝手なことを書くわけにいかないだろうし。
じゃ、小説家、勝手な夢想家的立場で思うところを述べればいいのにと思うが、そうする人も少ないようで考えるのも億劫なのだろうか。
手持ちの本を見て見よう。
「地図でみる東日本の古代」132頁では明治42年測図上に
A 水神森の墨田川対岸東京紡績工場下から豊嶋駅までは推定・想定路として直線で破線を付し
B 豊嶋駅から宮城まではそれより格下の未詳路として●点線で直線線を付している。
上野公園、寛永寺、不忍池を避けた西寄りのコースで、東京帝大のど真ん中を通る
本郷台コースといえるものになっている。
武部「古代の道」はそれより具体的で次のように書いている(79頁)。ー 東進 ー
JR田町駅付近からほぼ国道1号(桜田通り)の筋で皇居前を通り、名前が変わって本郷通りを北進し、直進路がなくなってもそのまま上野公園の西端を通って行けば谷中霊園に達する。ここが木下による豊嶋駅の比定地である。
ここまで前の大井駅から13.8キロである。東海道の武蔵国の駅はここで終わる。店屋、小高、大井、豊嶋の4駅の駅馬数はすべて標準どおりの10疋である。
上野公園の西端とは台地の上か、左端に近い松平伊豆守敷地近辺の清水坂あたりの道か、不忍の池左側の現不忍通なのかわからないが実際の踏破を前提にする以上どれかに決めないと進めない。
検討しないと。