伊皿子交差点を過ぎ、すぐ100mくらいでこんもりした森。よく見ると門前に機動隊の車両1台と立っている警察官。
高輪皇族邸だ。立哨警備とは現に皇族が居住中?
その50mくらい先に茶色系の外壁(冴えない)の高層マンションが建っているが、なんと都営アパートだそうだ。
こんな超一等地に都営アパートはないだろう。京都御所の隣に京都府営アパートをたてるようなもの。
会計検査院的発想で考えれば民間に高値で土地売却し、そのお金で湾岸埋め立て地にキャパ数倍の都営アパートを作るのが筋ではないか。
ここでも尾根道らしく、脇は下り坂で海へ連なる。
二本榎通り(海側)には高輪中・高校と東海大付属高輪台中・高校が並んでいて分かりづらい。
高輪中・高校とは港区立?
沿革によると元は京都西本願寺の私立学校。今は仏教色を排しているらしいが。
大正6年の台風で高台の校舎が倒壊したとある。大正6年と聞いて、もしやと思うところがあり調べるとやはり関東大震災の6年前に東京湾をおそった大災害のようだ。
ここは高台だから高潮にのまれることはなかったがすぐ下は海。海沿いは甚大な被害を受けたのであろう。
以下ウイキペディア引用
東京湾接近時には、折しも満潮の時刻と重なり、東京の京橋区、深川区、本所区などの東京湾沿岸域や隅田川沿いの区部は著しい被害をこうむった。前後2回にわたって高潮が押し寄せ、佃島、月島、築地、品川、深川地区などが浸水。月島、築地、洲崎方面の増水が激しく、多くの人が溺死した。東京府の死者・行方不明者数は日本全体の半数近くの563人に上った。
千葉県の東京湾岸一帯にも被害を及ぼした。浦安町は全町が水没した。江戸時代を通じ、幾多の水害をくぐり抜けてきた行徳塩田は堤防が完全に破壊され、これをきっかけに東京湾で行われてきた塩田による製塩業の数百年の歴史は事実上幕を閉じた。
こちらは大学
承教寺
この門からかなり奥まったところにある境内に英一蝶の碑がある。
しかし宗教の場としてのアウラは感じられなかった。
さらに進んで高輪署前交差点(高輪3丁目)
警察署の先にお寺の山門が見えている。
中はかなり広く、建物、石碑などもピカピカ。財政豊かそう。後藤田元官房長官の碑もあった。
本堂前から見る入り口の山門
何やらかっこいい門が。
大名屋敷の跡か、そうでないかはわからないが、味の素の保有する施設の一部のようだ。
先隣りは、かっては国会議員の議員宿舎だったが、現在解体中。
なんで都の工事になっているのだろう。土地を取得したのか、週休二日制確保試行工事とある。
二度とみられない更地状態。
このあたりで右折すべきだった信号に名称がないこともあり、行き過ぎてしまった。
今回最初の迷い道か。ただし意義ある行き過ぎだった。
プリンスホテルの広大なゾーンに進んでいた。
進めば品川駅前(15号。第一京浜)に出る柘榴坂
それにしても高輪、品川あたりのプリンスホテルの体系がわかりにくい。
こんなに良質不動産を持っているのになんで西武がダメになったのか思い出せない。
出た。高輪台交差点だ。
正面に交番が見える。その後ろは頌栄女子学院高・中となる。
手持ちの文化8年の1枚物の図からたどってみる。
先ずは江戸城から