古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

東京の道④ 神田駿河台2丁目から駿河台下へ 

 もういちど、神田山の裾野、駿河台下までを見てみよう。

 

神田山の尾根=標高の高いところをイメージしながら歩くとすると、今現在では254号(春日通)以南のルートはこうなるだろう。

 文京区立本郷台中(東側の一方通行)→本郷給水所公苑・水道歴史館(東側の一方通行)→順天堂大と病院としての順天堂医院の間の道路をまたぐ連絡廊下→外堀通り(順天堂大前という信号名が付されている交差点の一つ西側)。

教育施設箇所まで足を延ばすことはないのが一般だろうけど途中の道を含めて落ち着いた静かないい道だ。

 

 

 神田川を越えるとJR総武・中央線。

 

 

その先は日新火災の大きなビル(両脇は東がお茶の水美術学院、西が東京医科歯科大の研究所)にぶつかる。かえで通りを越えると前述の三楽病院や浜田病院のある一角となる。

 

 JR御茶ノ水駅を降りて駿河台下まで書店、楽器店、スポーツ用品店目当てで歩く人は多いがほとんどは明大通りの広い道を利用する。この道より西側に入る人は病院、明治大、日大理工学部等に関係する人が中心となりそれ以外では激減するだろう。

私自身三省堂に行く途中、交差点から山の上ホテルをちらっと見るだけで足を踏み入れることなく〇十年と過ごしてきた。

 それが、たまたま千年以上前の古道を考えるに際して「分け入る」ことになり、不思議なものを感じてしまう。

大昔の雰囲気など残っているはずがないと思うのがむしろ普通かもしれない、しかし歩いてみるとそうではなかった。起伏が多い、広くない道が多い、近現代的都市計画なら統廃合するはずの道が不用意にも?残っているなど昔の山道を思わせるような香りはまだ残っている。

神田川の両側を含んでの概略的な想定ルートはこうなる。

 神田駿河台2丁目は三楽病院、浜田病院など大規模建築物が建てられていて大昔を偲ぶよすがとなるものは高度・地形以外ない。

 浜田病院と駿台予備校2号館の間の一方通行の道→とちの木通りを越え→出版健保会館と駿台外語&ビジネス専門学校内の間の道→錦華坂に入る→すぐ左手には山の上ホテル、右手には漱石も在籍した錦華小(現在はお茶の水小に統廃合)がある。

なお、錦華坂は神田駿河台1丁目と神田猿楽町1丁目の行政境となっている。

 しかし錦華坂もお茶の水小と明大図書館に挟まれた四つ角で迷うものがある。次の地図に移ってEの地点だ。

 

 Aは駿河台下という名前がついている大交差点だ。角には黒沢楽器店がある。しかしB交差点にはこれも大きな交差点なのに名前がついていない(Cは三井住友銀行、Dは石井スポーツ)。至近距離の二つの信号に名を付すのはかえって混乱を招くからか。

 錦華坂が古い道だとして昔々はEの先はどういうルートだったのだろうか。本郷からの流れ、これから先の一ツ橋への流れからするとEはBに連なっていたのではと考える。

ふるい歴史ある結節点B、そして1600年あたりから新興結節点Aができたと考えたい。

道路わきのこの地図、南北は逆だが上の地図と合わせて参照を。

Eの狭い四つ角にはウイルボッサというおしゃれな外観の美容院がある。

 



* 山の上ホテルから見下ろす明大通りで神田山の高さが実感できよう。