古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

東京の道② 谷中から本郷通りへ

 さて、現日暮里駅付近の坂を上り天王寺付近の豊嶋駅に着いたとして次の大井駅家(現JR大井町駅付近)へ向かうにはどういうルートで?

 ここに至る直前のルート以上に不詳で研究者も上野公園脇→本郷通り→皇居あたりという程度。武蔵野台地東端といっても谷中→寛永寺→上野公園→不忍池に至る上野台地のラインと中央に藍染川(現在は暗渠)が流れる低湿地の谷を挟んだ西側の本郷台地ラインに区分できる。

  上野の台地に遺された唯一の墳丘として、摺鉢山古墳があり、前方後円墳と考えられている。このほか付近に、東京文化会館敷地内には桜雲台古墳、国立博物館内には表慶館古墳、旧都立美術館南正面に蛇塚古墳があったという。

古墳群のほかに縄文時代貝塚や遺跡もあり、JR西日暮里西側沿い北から南へ道灌山遺跡、延命院貝塚、領玄寺貝塚天王寺貝塚、新坂貝塚、と続いている。

 谷田川を挟んで本郷台地には富士神社古墳、動坂遺跡、向ヶ岡弥生町貝塚、東大構内遺跡、湯島切通貝塚と遺跡が目白押しだ。

 では南に歩くとして上野台地、本郷台地どちらを選択したらよいのだろうか。足して二2で割って真ん中を歩く?

そういうわけにはいかない。何しろ昔はそんな道はない。明治以降も低湿地の酷い状況が長く続いた。

 

 上野台地の摺鉢山古墳(前方後円墳)を見て見よう。上野公園内はこの地図がわかりやすい。東京文化会館の北側に上野公園管理所と小さな文字が見えるがその左手の起伏が古墳だ。

管理所左手の階段を上った所。かなり削り取られて平坦化されているが。

 公園内には数多くの公的施設があり、その一つは一時期私の職場でもあったが在勤中全くこの古墳のことは知らず、階段を上ったことは一度もなかった。
物理的に見えているものも前提に理解・意識しているものがないと見えない同然ということがある。

 東京文化会館の遺跡はどこらへんだったのだろう。

文化会館は職員入り口(ファンが出待ちするところ)を入ってすぐ左に事務室があるがその執務室の外にシークレットゾーンともいえる庭があるがそこかもしれない。

外から見るとフェンスの向こう側だ。

あるいはその外であったかもしれない。

脱線するがこれも今回初めて気づいた外壁。前川氏のただ事でない仕様に恐れ入る。氏の細かな部位に至るまでの極度の集中力はすさまじい。

 

東京国立博物館はこの地図で右上に

 

一方、本郷台も前述のように遺跡は多く、これらの点で単純に優劣はつけられない。後へ続くルートへのスムーズな移行性、一口で言えば「地形」で考えたい。すぐ低地になり不忍池にぶつかる上野台より谷を横切るにせよ幅が幾分でも狭く安定した上流域を選ぶのではないか。そう考え、先ずは古くからある団子坂のピークを目指すことにした。

 当時は天王寺(前身は感応寺)も林立するお墓もなくほぼ直線で行けただろう。約900m弱の距離だ。

団子坂上といえば森鴎外の旧居跡があり、文京8中・汐見小との間を通る薮下道は雰囲気の良い文士に人気のある道だ。

 

 

 

が山の中腹で元来狭く、官道と言うには無理だろう。もう少し先に進んで平坦な尾根道を左に角度をつけながら進む。少し歩くと日本医大があり(文京区千駄木1丁目)、そばには漱石が「吾輩は猫である」を書いた旧居跡がある。高台の明るく静かないい所で、昔から東大の先生も多く住んでいる。作家車谷長吉が東大出身の奥さん(詩人)から千駄木に住みたいとおねだりされたと書いている。南進し弥生1丁目の弥生キャンパス(農学部)をかすめ、まもなく本郷通り(17号)に入る。

 

 本郷3丁目を過ぎ、壱岐坂上あたりで順天堂大学の建物を目にしながら道は大きく左にカーブするがまっすぐ進む。300mほどで外堀にぶつかる。徳川幕府が治水と防衛の両面から神田山を掘って外堀(神田川)を開削したもの。千年前のことを考えているのに現代の作家とウクライナ戦争が思い浮かぶコースである。