古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

そうだ東京へ行こう⑩~⓭ 田中光顕旧居、関口芭蕉庵、胸突坂、目白通り

 

そうだ東京へ行こう⑩ 田中光顕(たなかみつあき)の旧居、蕉雨園

写真右側に見える簡素な塀は永青文庫

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左側に見える長い塀はどこのお屋敷か。

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塀越しに蔵や使用人用?の木造住宅の軒先を見ながら少し目白通りに向かって戻ると立派な門が目に入る。


そう、田中光顕の旧居、蕉雨園である。
公開していないこともあって椿山荘の山縣有朋ほど知られていないが、この人も波瀾万丈の無視できない歴史上の人である。
ろくに白米を食べられず、まともに侍扱いもされなかった土佐藩下級武士出身。
イデオロギー的理由から叔父が及んだ藩の上士、吉田東洋暗殺事件にも関与しているとされる。
高杉晋作黒田清隆中岡慎太郎らとの関係・交流があり、多くの武闘に加わっている。
坂本竜馬暗殺の場にも駆け付けたそうである。
革マル・中核の内ゲバ殺人がより大規模で行われたようなものであったのか。
血なまぐさい実戦歴とともに文化活動も行っている。
維新後は大役につき、内閣書記官長(今の官房長官)、警視総監、学習院長などに就任しているが、11年の長きにわたって宮内大臣に就いたことは大きい。
 早大図書館は国宝・重要文化財になる貴重資料の寄付を受け、今尚感謝している。まあ、国宝をもらえたらこんない嬉しいことはないであろう。
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/kouken/2006exb03.html
 HPに公開されている西郷隆盛の書を見て驚いた。こんなにみごとな書を書ける人とは! そしてHPで公開してくれていることに感謝!文化財は国民共有の財産。全国の図書館・博物館様よろしくお願いします。

 

 

 

 

そうだ東京へ行こう⑪  関口芭蕉庵と水道工事


 1 田中光顕伯爵邸の南続きで丘陵を下る途中から神田川に面する道までが芭蕉庵となっている(管理はここも講談社)。
川の反対側から見ると芭蕉、すなわちバナナの木が数本見える。

 

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立派な表門は普段は閉ざされており、左脇の小さな(といっても普通の民家程度)から入ることになる。
芭蕉庵内部の家屋は何度か火災にあっており、比較的に新しいものである。
芭蕉の崇拝者は多く、後付の石碑、植物が多い。思った以上に広い立派な和風庭園となっている。
2 ここで芭蕉とこの庵について触れたい。
次のように説明されることがある。
松尾芭蕉は34歳から4年間ここに居住して神田上水の改修工事に加わった。芭蕉は伊賀藤堂藩の武士であったのであり、藤堂藩は築城・土木・水利技術に長じていたので、芭蕉が工事監督として神田上水の改修工事に関係したのも納得される。”
私は以下の点から少々疑問に思う。
・彼は藤堂藩伊賀付さむらい大将藤堂新七郎良精(5千石)の嫡子良忠に仕えていたが良忠は25歳で病没し(芭蕉は23歳)、ほどなく到仕(仕事を辞めること)している。
主君とともに俳諧の熱烈な愛好者であり暇があれば俳諧を作っていたものと推察される。武士のたしなみとして、剣術、書道、四書五経的なことはお勉強していたであろうが23歳までの間に果たして土木・水利まで勉強する時間と意欲があったのであろうか。
・改修工事がなされたのは事実であるが、それは幕府から命を受けた藩の工事なのであろうか。江戸時代の説はあやふやなのものがあるので、幕府あるいは藤堂藩の文書で裏を取る必要があると思うが。
・仮に藩による工事としても、芭蕉は二男で兄が家督を継いでおり、兄を差し置いて監督という大切な職務に従事するものであろうか。
・長くなるのではしょるが、工事は町人が取り仕切っていたものであり、芭蕉は川さらいなど現業的職務に従事していたとの説を取る。
 芭蕉崇拝者はいい気持がしないかもしれないが、現代でもオーバードクターのアルバイトがあり、決しておかしいこととは思えない。何年か前の関東のローカルニュースにしかならなかったが東工大大学院生がアルバイトの道路工事中、車にひかれて死んだことを知り気の毒に、と思ったことがある。
・水番小屋に寝泊まりしていたとしても、それが本意の従事なら句に詠う、あるいは文章に残すであろうが、その点はどうなのであろうか。
3 宮尾しげお氏は「芭蕉庵といっても芭蕉が住んでいたわけではなく、1743年の芭蕉50回忌を追福して白兎園宗瑞と如是庵馬光が発起人となって建てたもので、かって芭蕉がここで近江の瀬田に似ているといって「五月雨にかかれぬものは瀬田のはし」という句を詠んだのにちなんだと言う。」と述べている。

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そうだ東京へ行こう⑫ 胸突坂


 ぜひともお勧めするこのコース最高のスポット。地元の人、職場・学校が近い人は知っているがそうでない限りあまり知られていない。
修学旅行で東京へ来る場合は寄ってほしい。時間がなければJR目白駅で降り、都バスで椿山荘まで行けばよい。
都内に由緒あるナントカ坂は多い。が、多くは車道となり昔の面影はない。
ここは細く、急傾斜で、車道とならなかったのが幸いであった。雰囲気が残っている。
昔の雰囲気だけではなく今も生きているスポットである。
これまで見てきた和敬塾永青文庫、新江戸川公園、水神社のラインと蕉雨園、関口芭蕉庵に挟まれた狭い急傾斜の坂道である。
ただ、それだけのこと。しかし昇り降りした人を考えると凄いではないか。
旗本が通った。
大名も歩いた。
芭蕉も田んぼを見ながら詠んだ。
明治の元勲 山縣も、田中光顕も散歩した。
後で総理大臣となった田中角栄細川護煕も歩いた。
もちろん、田中真紀子も。
永青文庫に来たついでに白洲正子も。
村上春樹も通学に昇り降りした。
写真は上からと下からのもの双方を載せた。

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次の写真右側は芭蕉庵の普段の入口。左の粗末なフェンスは水神社手前駐車場のもの。芝生部分が水神社境内の縁。

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文京区役所も、歩きやすく整備し、説明の文を敷設している(写真)。

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今、坂と橋(駒塚橋)が直線につながっているが、かってはずれていた(地図参照)。

 

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そうだ東京へ行こう⑬ 目白通り

    
ここら辺で建物ではなく、沿って歩いている目白通りの雰囲気をお伝えする。

 

       

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どういうわけか平日でも、車、人とも少ない。
もっとも、目白駅に近づくにつれ雑然とし、並みの道路になるが