⑦ 野間清次と「大正大震災大火災」
上品なフラワーショップ右隣のこの邸宅にはかって、野間という表札がかかっていたと記憶する。
奥深く閉ざされた門を見て大出版社の社長宅ともなると違うもんだと感じた覚えがある。
2000年4月以降ここが講談社野間記念館となって公開されていることは最近まで知らなかった。
創業者の収集した美術品を保管陳列してあるそうで、何だか隠れ美術館という感じがして魅力がある。
そこで行くことにした。当日は、あわせて歌人の旧宅もあった一般住宅街も見たかったので先に道路の反対側の小道に入り、少し散策した。
その途中、突然異様なお化け屋敷のような廃屋が目に入いった。異様だが倒壊しかけたレンガ塀は美しくもあった(これについては後でお話しする。)。
このあと記念館に入った。著名な日本画家の作品や貴重な出版資料が展示されており興味深く拝見した。
ガラスケースの中に「大正大震災大火災」という書籍があった。表紙絵は横山大観が描いたそうだが、この出版は講談社にとっても大変に意義があるそうで(社史には必ず触れられる。)、何やら長い説明文が壁にかかっていた。
おや?と思った。どこかで見た記憶がある。もしや?
家に帰り書棚を探すとその初版本があった。実に84年前祖父が買い求めたものである。
祖父の本は殆ど神田の古書店に売却し車で持って行ってもらったが、わずかに遺品として残っていたものであった。
震災後1カ月で発行されたことが信じられない、神業としか思えないような極めて濃い内容である。
後藤新平(内務大臣)、渋沢栄一、福田雅太郎(関東戒厳司令官、陸軍大将)の書、三宅雪嶺、幸田露伴等の序文、与謝野晶子の短歌、大町桂月の文、軍作成の被災地図、数多くの写真と記事、発布された諸法令など、公的報告書+読みやすい雑誌双方の性格を兼ね備える一級のものである。
この本は資料的価値があるようで関係学会でもまな板にのる資料となっている。しかし一般には知られていないのは内容からして残念なことである。知ってもらうべきものと思う。
別に項目を立て順次紹介することにしたい。
その2 ミステリーなこと
3万人以上の焼死者を出した本所の被服廠で「死体の取り片づけの人夫が、鳶口で死骸を掘り出しているとき、重なり合った死骸の間へ鳶口を打ち込むと、けたたましい子どもの泣き声がした。」「母親らしい女の死骸に抱かれている3歳ばかりの女の子がでん部に血を出して泣いてい」たそうだ(「大正大震災大火災」)。
掘り出され入院した先が、「大学病院の分院」。何と野間記念館に行く直前に見たお化け屋敷すなわち東大病院分院であったのだ。
84年前の出来事が私の中でぐるぐるまわったミステリアスな1日であった。
なお、東大病院分院も平成13年に組織的には無くなっており、建物も間もなく取り壊されるとのこと。たまたま散歩に出かけ、解体される前の分院時代の建物を見ることができた(3枚目の写真)。
椿山荘を出てすぐ左にあるのが野間記念館、そこを出てすぐ左にあるのが和敬塾
旧細川藩の下屋敷で前川製作所が昭和30年に購入し、男子学生寮としたもの。
現在50大学の学生がいるそうだ。
和敬塾という名は学生時代も何となく耳にしていた。が、どことなく右翼っぽいイメージがし、また単なる地方出身者用学生寮に過ぎず、取り立てて中を見たいとは思わなかった。
イメージが変わったのが1987年発表の「ノルウェイの森」から。
小説は発表後10年以上経ってから、ノルウェイに行くとき語呂合わせ的に機内で読んだ。
ずいぶんポルノ的シーンがあるんだなーという印象を受けた。
これを世界の子女が感激して読んでいるんですか。
どうも関西人的ものの見方、翻訳小説的なまどろっこしいセンテンスは苦手だ。
いずれにせよ、村上春樹がノーベル賞を取ったらこの寮は大騒ぎになることだろう。
門構えは変わっていなかったが、新築工事中であった。FIより学生寮の方が広く人材育成に連なって企業イメージはよいし、なるほどと思う。
学生は中で人に会うとこんちわ、と言うそうで、私もそう言われたのでコンチワと答えた。
学生らしく、あちこちにバイクが置いてある。
和敬塾本館(上の写真)は旧細川侯爵邸で総理大臣になったあの細川護煕さんも子供のころ住んでいたとのこと。
おや、このコースで総理大臣は2人出ていると思っていたが(鳩山一郎さんと田中角栄さん)、細川さんも入れて3人となる。高い確率だ。
歩いていたらドングリが落ちてきて工事用の板にあたってコーンと音がした。都内とは思えない恵まれた環境だ。
ここで学生時代を過ごし、学者になった知人がいたことを思い出した。長年会ってないけど今どこで何をしているのだろうか。
次の写真は次回に述べる永青文庫から見た学生寮
⑨ 永青文庫と細川家
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