古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

上総の国⑪ 菊間古墳群と国造

土木学会論文集D22vol69にある小方武雄氏の次の一説には強く賛同したい。

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直接は神奈川県での古代道について中原街道説ではなく246号説を採る論拠として挙げるものであろうが氏も言うように他の地域での比定にあたっても十分に根拠となるものと考える。

更級日記古代道のルートで上総から下総にわたるゾーンで重要なものが現市原市菊間町にある菊間古墳群であろう。

その中身に入る前に今回数度にわたって訪れて驚いたのがいまだ手つかずの前方後円墳が至近距離にいくつもあることだった。

浅学不勉強な小生、明日香村に行かないとこんなことはあり得ないと思っていたが東京から遠くない千葉市南端に隣接するところに古墳がゴロゴロしているとは全く知らなかった。

このゾーンはぜひとも乱開発される前に自治体で買い上げ等の処置を講じてほしいと思う。

まずは航空写真から。

狭いところにいくつもの古墳が。

 

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この古墳については以下の市原市埋蔵文化財調査センターの解説がわかりやすい。

(以下引用)

  菊間古墳群には現在もいくつかの古墳の墳丘が残っており、墳丘の測量調査が実施されているほか、部分的な発掘調査が行われています。現時点でわかっているだけでも、前方後円墳3基(北野天神山古墳・東関山古墳・姫宮古墳)、前方後方墳1基(新皇塚古墳)、円墳13基、方墳33基、と総数50基にのぼります。古墳群周辺の発掘調査では墳丘を失った古墳が多く見つかっているので、もともとは大小織りまぜて台地上にかなりの数が展開していたようです。

 

また、国造、菊間の国については以下に

(以下引用)

 ククマのクニノミヤツコ
 文字に記された歴史より昔、いまの市原市にあたる地域には上海上(かみつうなかみ)と菊麻(くくま)のクニがありました。上海上養老川流域、菊麻を村田川流域に当てるのが定説となっています(この地名と同じ音は8世紀はじめ成立の古事記に記された「玖玖麻毛理比売ククマモリヒメ」という人名にも見らます。ククマがどこかの時点でキクマに変化したのでしょう)。
 このククマの地には、のちの時代に国造(くにのみやつこ)と呼ばれる有力者がいました。それは国造本紀(こくぞうほんぎ)という古文献に記された各地の国造の系譜に名前のあることからわかります。菊麻国造は大鹿国直、上海上国造は檜前舎人直(ひのくまとねりのあたい)とされており、国造本紀が編集された7世紀の時点で、各豪族の主張する系譜にある人名が採録されたと考えられています。