古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国⓱ 千葉市から先の探索で悩む―四国遍路との対比

 

ネット特にユーチューブやブログに旧街道を歩くというものが見受けられる。

特に東海道については正月の大学箱根駅伝があるし、江戸時代の戯作があるし、53次の浮世絵があるし、ということで特に目立つ。

 

歩くというのは一種何とかハイになる中毒性もあり、その最終ステージともいえる四国歩き遍路ではフランス→スペイン修道路を歩いてきたとか、前、東海道を歩いたという人も見受けられた。

四国歩き遍路を通し(1200キロ連続)で行うとリュック(軽くして8キロ前後)を背負って平均45日は掛かるのでかなりの覚悟が必要となる。

 *作家車谷長吉夫妻は60日以上かかったらしい。

覚悟というのは体力、長期間職を離れること(現役では無理。失業者も雇用保険の手続きがあるから中断せざるを得ない)、装備代+1泊6500円×45泊+四国までの往復旅費で何十万かはかかること。

 しかし、スペインへの遍路道(私は行ったことがないが数回行っている友人がいる)や四国遍路はとてもイージーな面もある。

それはルートや泊まる施設の情報が十全なこと。四国の場合、定番の遍路宿リスト付きルート地図がありそれさえあれば悩むことはない。日々歩いてその日の調子で今晩泊まるところに電話をかければ済む。

 登山の山小屋ほどではないが私は41泊中断られたのは3泊ぐらいだった。また四国では遍路客は全国、外国からくる大切なお客様で、おもてなしの気風が強いし、ルートも電柱やガイドレールに符合が記されているので地図を見る必要は少ないのが実態だ。

 

もし近世の東海道を歩くあるいは車やバイクで行くというのなら時折、一部旧道を歩く程度で済みルートに悩むことはほとんどないだろう。

距離もさほどのことがなく、おつむも筋肉にすればよいだけ。中学生から高齢者までよい目標設定になると思う。

 

 しかし、1020年ころの東海道はというとほとんどわかっていない。だからこそ学問の対象になり、ごく一部古代の官道らしきものが発掘されるとそれだけでニュースになる状況だ。

結局、歴史・地理学、考古学の知見を門前の小僧的に聞きかじってそれに学者・研究者でないという特権的?好位置に甘えて大胆な発想で決めるしかないと思う。

 

 さて、千葉市の中心千葉駅あたりから先、稲毛・検見川あたりまでをどう考えるかであるが、ここら辺に土地勘のない方、例えば関西の日本文学の先生なら、アバウトに海に沿って=国道14号(千葉街道)沿いに東京へ向かえばいいのでしょうと思うかもしれない。

 

 しかし少し土地勘のある人なら、そして道路の歴史を知る人ならそうはいかない。

何しろ千葉市登戸(のぶと)から稲毛までの千葉街道ルートは明治19年(1886年)に千葉監獄の囚人を使ってやっと出来たもの。

だから江戸期の房総往還も大きく東に迂回している。

f:id:hen-un:20210826154332j:plain

 

ここら辺のところの状況については以前紹介した武田宗久氏の作図を拝見するとわかるような気がする。

 文献 千葉市史資料編1 240頁 5-2図   

    千葉市街周辺における地形上の変遷と郷名

 

f:id:hen-un:20210826154510j:plain