孝標の娘は白砂と松林の風景が好きだったようだ。
泊まった黒戸というところ(下総の国、現千葉市のどこか)は片側が広々とした砂丘で砂浜は遠くまで白く続き、そこには松原が茂っているとその情景を愛でつつ描写している。
逆に武蔵の国では「ことにをかしきところも見えず。浜も砂子白くなどもなく」と東京低地の景色のつまらなさを嘆いている。
さて、京成沿線、特に菅野から真間にかけてはなぜか黒松が多かった。海岸沿いならわかるが海から遠く住宅地の真っただ中、時には道路の真ん中に生えているものがあり子供心に奇異に思ったほど。
(外郭道路ができる前の日の出学園校庭ふちに多かった)
そんな風景ももうないかと思っていたら決してそうではなくまだ残存風景があった。
そして意識してここら辺の原風景ともいえるところを保存しているところもあった。
ここは何とか将来にわたって残してほしい。
住居表示で言うと市川市平田町だ。考古学会、特に市川市にとって恩人ともいえる杉原氏もこの近所に住んでいたと最近知った。
松が多いのはここら辺が昔、海岸だったからと聞いていたが、へーこんなところがと思うだけで長年それで終わっていた。
6月初めて市川市立考古博物館に行きその掲示を見て合点がいった。博物館って、カビの生えるようなイメージしかもっていなかったが身近な疑問点を解明してくれる有用性を認識した。
市川砂州というらしい。なるほどこの上に伝統的市街地が形成
されていたのか。
砂州は隣の東京都江戸川区まで続きその先に上小岩遺跡通りが見えている。古代東海道は市川の井上の駅からそこにつながるとみるのが素直な解釈だろうと思う。
時代による海岸線の推移は左下の箇所に。