古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

更級日記東京の道⑥ 発掘調査報告書「(東京都千代田区)一ツ橋二丁目遺跡」について

 

 この報告書は論述内容、図版、写真、まとめの表のほか、紙質・印刷等も含め大変に充実したものであり、一部の人にしか知られていないのはもったいない。

幸い、古書店から原本を取得できたのでごく一部であるが紹介させていただく。

 

<例言>

 旧一ツ橋講堂跡地(千代田区一ツ橋二丁目1番地)に建設される学術総合情報センター建設に伴う事前調査に関する報告書である。

 発掘調査についての費用は文部省、整理調査から報告書刊行までの費用負担は学術総合情報センターが負担。

 発掘調査は文部省、学術総合情報センター、千代田区教育委員会三者協定に基づき設立した「遺跡調査会」が、調査実務は「遺跡調査団」が行っている。

 発掘調査は平成8年5月27日から同年9月20日まで

 発掘調査報告書発行は平成10年3月20日

  団長 長谷川章雄の指導の下、各担当者が分担して執筆している。基礎編集作業は

  後藤宏樹が当たっている。

 本調査で検出された諸資料の保管・活用及び報告書の版権は東京都千代田区教育委員会保有するとのこと。

(以上「例言」より )

断片的であるが基本的あるいは注目した個所を一部引用紹介する。

 

<歴史的な環境>

・本遺跡は、古墳時代後期から近世複合遺跡

千代田区内での近世以前の遺跡の内、弥生時代から古墳時代前期までの遺跡分布は谷を望む台地上に広く分布しているが、古墳時代から古代の遺跡数は比較的少ない。

 古墳時代後期以降になると平川流域に集中する傾向が窺える。

・区内に古墳は発見されていないが、本遺跡のほか皇居内や北の丸、九段坂上貝塚など平川を望む台地周辺の遺跡から埴輪が出土しており、集落の分布と共にこの地域の古墳の存在を示唆している。

<地形上の特徴>

・台地と低地の境界部にあたる本遺跡は、神田川下流となる旧平川が開析した広い谷に該当する。一ツ橋から大手町・丸の内・皇居前付近にかけての旧平川流路は、縄文海進時に堆積した有楽町層がみられる地域である。

・発掘調査等によって本遺跡は旧平川左岸に位置し、有楽町層上部には古墳時代以降に

堆積したと考えられる黒色土層が確認された。これによって、本遺跡の自然環境は、河川際の微高地であったと推定され、自然科学分析によって水の影響を受けやすいジメジメした環境であったことが判明した。

 

<遺跡概要―近世以前の調査成果>

・16世紀前半以前の道路址(095遺構)は、側溝を有する幅2mの砂利道であり、中世江戸城のある本丸台地の方向から北東方向の本郷台地に向かっていたと指定される。

この遺構は幹線道路とは考え難いが、この地域には古代の東海道や中世の鎌倉街道下ノ道が存在したと推定されるため、、これらの道路との関連性も考えられる。

 

<8章2 平安時代の遺構と遺物>

・本遺跡周辺では、9世紀代以降に古東海道の推定駅路が北走すると考えられ、東京国立近代美術館遺跡では9世紀代以降に位置付けられる一般集落にない遺物が出土している。また、本遺跡でも9世紀代以降の集落の編成がとらえられている。

 このように本遺跡周辺の東京湾岸に沿った地域では、9世紀代の古東海道の駅路の変更に伴う集落の再編や律令制下の地方権力機構の介在が示唆される。