高台の平坦地、それでいて水辺からほど近いところには遺跡が多い。
土地について人が求めるところは昔も今も変わらないようだ。
一ツ橋2丁目遺跡から見てかつての日比谷入江の対岸にあたる台地上(北の丸)には国立近
代美術館遺跡があり(下の写真)、皇居内には旧本丸西貝塚遺跡ほかがある。
京へ向かう過程で平川の微高地から麹町台地(まだお城はない)を上がり、現東御苑相当
箇所に入るのは地形的に自然の流れだろう。
平川門を入って直ぐ書陵部に進む手前に梅林坂がありその説明板になんと「この地に最
初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことか
ら梅林坂の名がついた」とあった。
太田道灌は東京都と縁が深いし、菅原道真5世の嫡孫が菅原孝標だ。両者を少し見てみ
よう。
菅原道真(845~903年)は学問の神様と言われるが、一点、遣唐使を廃止に導いただけで
も国際情勢を含んだ世の動きを見る力と既成の流れを断ち切る実行力になみなみならぬ
ものを感じる。太田道灌(1432~1486)が守りの拠点としてこの地に江戸城を築城したの
は室町時代後期、1457年。道真歿後550年も経っている。九州、畿内を遠く離れた東国
の地にそこまで影響力が及んでいたのか。
ここで思い出したのが下総との国境に近い上総(現市原市古市場)の町はずれでたまた
ま目にした鄙びた小さなやしろ古市場天神社だ。
https://chiba-furuichiba-tenjinsya.jp/history.html
平安末期から鎌倉初期にかけてそのあたりに館を持っていた高嶋恒重(千葉氏の家臣)が12世紀末に道真を祀るため建立した神社とのこと(高嶋天神社とも)。武将間での道真=天神信仰は古くから広範に及んでいたようだ。
さて、太田道灌は1486年主君の扇谷上杉氏の命で暗殺されているが、一族は滅亡して
いなかった。徳川家にも厚遇され、前に触れた千駄木の薮下通り近くにある「千駄木ふ
れあいの杜」*は太田備中守資宗が3代将軍家光から拝領した下屋敷跡地で子孫が平成28
年に文京区へ寄贈し都市公園となったものだ。両家の現在につながる長い歴史、そして
混乱の中でも何とか歴史をつなげられる日本らしさを実感する。