古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

途中で言及した人または地点と話題 その1 五木寛之

古代の足跡をたどるこのブログも千葉県市原市から東京都台東区まで進んでいるけど、それだけの距離でもたまたま挙げた人や地点が令和の今、世の話題となっていることがある。

 

五木寛之氏 (下総国 市川市の記事で触れている)

 2月3日朝、車の中だったか、NHKラジオを選択したら五木寛之氏が生出演するというので珍しいと思い傾聴することに。

この方、人生訓的な話、著作が多く今回も広義ではそうだったが、中身が世の通(俗)説と異なり、広範な支持を受けそうに思われる。

 主旨は、日本では、いや世界的にも断捨離とか言って捨てることがはやっているが果たして?というもの。

煩悩も物も捨てるってそんなに格好いいものなのか。

平安官制仏教は捨てる仏教といわれるが,氏の解釈では法然らの鎌倉仏教はそうでなく、人を捨てない。

敗戦し朝鮮から極限状態で引き揚げてきたことも影響していると思うが氏にとって生きるためには捨てるどころか拾えるものがないか探す日々だったそうだ。

 

捨てるというのは生産→消費→その後に廃棄すること、CO2を排出することを意味する。

(人に差し上げたり再活用しないで)山に廃棄、火力で焼却することがそんなにかっこいいことなのか。流行のSDGS(持続可能な開発目標)思考に合わないのではないかという。

 そして「捨てない生き方」を断捨離ブームの中あえて提唱する。旅先で手にした飲み物のコースター1枚が、何十年かあとの豊穣の思い出のよすがとなる。

 

翌日2022年2月4日の日経第1面見出しは「捨てない」経済とあった。「捨てない」が流行るかも。

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直前亡くなった慎太郎氏と同一年齢とのこと。今年90歳になる。

なお、氏が異常に靴にこだわる理由が少しわかった。

敗残兵か、引き上げ者か、いずれにせよ生き残れたのは歩けた人だけ。歩けなくなった人は道端でうずくまり、そのまま命を終える。生きるため、歩くため靴にはこだわりを持つと。

九州から上京するときも父親のお古の軍靴をはいてやって来、それを長年履いたとのこと。

これじゃ、湘南、ヨットの慎太郎氏と話が合うはずがない。