古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国⑥ 低湿地遺跡「千葉市・神門(ごうど)遺跡」のこと  v2

 大覚寺山古墳を見学して遺跡通りに戻ってさあ、千葉寺へ向かって進もうという段階で意外な展開が。 

下総国①でこう述べた。遺跡にあたるものなどないはずと決めてかかっていたのである。

ただし村田川と浜野川にはさまれたBとC点の間、特に茂原街道(バイパス)北側は2021年現在でも低湿地というか荒れ地状態のところが多く、この箇所の確固たる旧道は認識できない。

( 更級日記に低湿地帯武蔵国の藪漕ぎ描写があるがここ千葉の風景を拡大したような状態であったのかもしれない。)

 廣照寺の手前の南生実橋付近で遺跡が発見されその報告書が1991年に発表されていたのである。

かなりぶ厚い報告書であり、序を読むだけでも意気込みが感じられる。また自然科学的な分析を全国の公的機関や大学に依頼していて珍しくも感じた。「低湿地遺跡」という響きは軽くない。

 

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千葉市では旧跡時代から歴史時代に至る数多くの遺跡が残されているが、(略) これらの多くは洪積台地と呼ばれる台地上や台地縁辺に所在しているもの。今回報告する「千葉市・神門(ごうど)遺跡」は低湿地に所在する」「土器石器等の遺物のほか獣骨・貝類等の自然遺物、それに低湿地遺跡特有の有機性遺物が数多く得られ、失われた過去の生活をより具体的に知る大きな手掛かりをあたえてくれるものものだった。」

 

 

 

 

 

報告書中の写真及び地図による現地場所

 

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地図だと

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当方の用意した地図だと

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改めて現地に行って撮影

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遺跡、調査した痕跡は全くうかがえない。

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現地図書館などに紙資料としてかろうじて残るだけではせっかくの調査が生かされない。須和田遺跡(市川市)のように記念銘板的なものを設置してほしい。橋が架かっているのだからそのスペースはあるだろうに。

 

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以下の地図で古代の官道はここ(赤〇)と思っている者にとって心強い。

なお☆2は八剣神社(☆3)に直行する神門橋。

セブンイレブンがあり駐車場も広いので車で安心して見に行ける。

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コンビニ駐車場から見ると進行右側に台地のヘリが見えている。

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歴史学者 吉村武彦さんの提唱

2021.6.4付読売の記事が興味深かった。

吉村武彦さん(1945年生まれ)はじめは東大でフランス近代史を志したが、日本史に転

じ、興味を持ったのが明治維新

が、近代を知るためには近世、近世を知るためには中世を知らなければと遡るうちに古

代史が専門分野になったとのこと。(マルクス主義歴史学に束縛されたくないとの考えもあったようであるが。)

そして一次資料が少ない古代社会の解明のため、歴史学のほか考古学や文学研究の成果をも取り込む「古代学」を提唱しているとのこと。

 

 更級日記研究をしている人の場合は文学から出発して、歴史学、地理学、考古学へと進む人が多いようだ。

 

関東の道路史(建設省関東地方建設局)

題名から受けるイメージをはるかに超える内容を持つ。

絶賛に値する。

 私は政令指定都市に居住する。その市立中央図書館の方が県立よりはるかに近代的で優れているのでもっぱら利用しているが、ある日気まぐれに10年ぶりに県立中央図書館に行き、開架式棚を見ていて目に入った。

 市立中央図書館では見かけなかった。この種の本は多分寄贈配布だと思うが県には贈っても市町村図書館は数が多すぎて贈っていないのかも。

東京でも都立中央図書館には蔵書にあった。が、閉架式図書であり、この本の存在を知らない者には機能しない。都立中央図書館は開架式の数が少なすぎると思う。

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何が優れているかは本の目次=構成でわかる。

1古代の道 2中世の道 3江戸時代の道 4明治から戦前の道路 5現代の道とあるが、

1,2,3それぞれについて

年表、社会と道の移り変わり、関東の道の姿、関東の道と文学 世界の道の項目がある。

広範かつ体系的網羅的。歴博レベルを超える。

あまりのすばらしさにコピーでは足らず本自体の購入をと考えたがもちろん市販されていない。

メリカルに唯一1冊あったので確保できた。

 

この本は40周年記念だそうで(平成10年発行)、だとすると50周年記念の発行も待ち遠しいが、コロナの影響で遅れているのかも。

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とにかく交通論を説き、学ぶ方々にとっても視野が狭くならないよう、悪く言って専門馬鹿にならないようこの本の閲読をお勧めしたい。

なにしろ、サイクリングロードや平成7年開業の新交通システムゆりかもめ」のことまで載っている。

 

 

 

後者には悲しい思い出もある。

人事担当者として電話で話したこともある若い技術者が「ゆりかもめ」に出向したが、ある日初の人身事故で轢死したとのニュースが入った。

実習なのか複数で軌道上を歩いていたらしいがゆりかもめは運転者のいない無人運転

(指令室で各車両の状態を遠隔監視しているが)

 

今話題の自動運転の先駆けだ。そのリスクを考えてしまう。

 

 

古代東海道 下総国⑤ 埋蔵文化財調査センター、大覚寺山古墳

 


八剣神社を出て、バス通り(千葉中央遺跡通り)に戻って北上。

埋蔵文化財調査センター入り口という大き目な看板があるのでそこで右折。

なだらかな傾斜を進むとすぐに右手の高台に建物が見える。

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資料も展示も豊富で勉強になる。生徒・学生の見学も多そうだ。

駐車場もあるので車で行ける。

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たくさんある掲示の中で一つをあげるとこれ

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千葉市だけで遺跡が1336か所!

旧石器時代の113から始まってこんなにたくさん。

東京湾内地域は遺跡だらけの様子。どうも畿内を特別視しすぎていたのではないか。

係りのおじさんに大覚寺山古墳を訪ねると玄関先に出て「あっちの方角で、すぐですよ」と教えてくれた。

普通の住宅街の中を進むとすぐにこんもりしたお山、そして立て看板。

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別の文書の説明は以下のとおりで立て看板と2か所違っている。
 なお、文中にある七廻塚古墳は今や公立学校の敷地になっている。なんとか保存できなかったものか。下総の国府内(市川市国府台)にある古墳は日本陸軍の基地内であったにもかかわらずに削られず、現在も国立東京医科歯科大キャンパス内にそのまま残っているというのに。

 

生実丘陵から南に派生する小支丘端部に位置し、主軸の方向を稜線に合わせ、前方部が北を向いた主軸長約66m千葉市内では最大規模の古墳です。墳丘の形態は、前方後円墳前方後方墳の両説があります。発掘調査が行われていないため定かでありませんが、墳丘形態、立地等に古式古墳の様相をよく残しており、築造年代は5世紀前半と推定されます。この時期は、南関東に古墳が出現する時期で、東国の古代社会を研究するうえで重要な古墳です。

昭和45年、宅地造成の際に発見され、史跡公園として公有化されています。

後円部に接して径10mの小円墳が所在しますが、陪塚の可能性があります。周辺の台地上にも小円墳が点在し、北東には発掘調査で石製品等豊富な副葬品を出土した七廻塚古墳が所在しました。

 

 ただし大覚寺山古墳は明るく芝山状態で直接登れるなど魅力に富んでいる。古墳とわからなかった時代も現在も子供がそこで遊んでいる。奈良の若草山にも似た雰囲気だ。

未だ掘られていないことも含めて一種の望ましい姿かもしれない。

 

入り口はわかりにくい。

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古代東海道 下総国④八剣神社

たまたま市販の一般的な地図を見ていたら小さく八剣神社というのを見つけた。

なぜか、気になって仕方がないがどうやって行くのかはっきりしない。

千葉中央遺跡通り(仮称)に入ってすぐ「廣照寺入り口」という看板があったのでそこから入ってみた。

 

    

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しかし狭く直角のコーナーばかりでわからない。

家庭菜園をしていたおじさんに聞いたら後ろを指してあそこだよと教えてくれた。

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背後から侵入するって四国88か所最終の寺に山から下りて入る時がそうで、芳しいことではないが。

 

しかし、しかしだ。思わず唸ってしまう。

ここは本物だ。

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境内、それより参道に残存する大木が証明する。

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千葉寺、市川の八幡神社、福岡の太宰府天満宮にある巨木に引けを取らない。

境内には私以外、たった一人。その男性はここにたどり着くのに10年かかったと話した。

境内から外を眺め、鳥居の向こうに参道が続いているのを知った。

前回の地図をよく見るとわかるが川から神社鳥居までほぼまっすぐな道が続いている。そこが正規、本来の進入路だった。

 

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別の日、もう一度正規の参内を。

目に入る光景がまるで違う。やっぱり、裏口入社はよくない。

 

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上のお宅は神社と無関係だと思うがあまりに雰囲気が良いので。奈良あたりでありそうな光景。

 

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案内板を見ても古いことは書いてない。

ネットで拝見した「猫の足跡」さんの記事がとても参考になるので引用させていただく。

  猫の足跡  https://tesshow.jp/chiba/

 この方の知識探究心は半端なく、素人には思えない

 (以下引用)

劔神社の由緒

劔神社は、日本武尊東征の際、当地の争乱を平定して総の国を上総・下総に分割、国境を定めたことに感謝して創祀したといいます。もと小弓(生実)の総鎮守だったといい、村が南北に分割してからは南生実村の鎮守となり、明治年間に村社に列格したといいます。

 

「千葉県神社名鑑」による八劔神社の由緒

日本武尊が御東征の折、相模国三浦よりこの地に御渡海なされ、争乱を平定し、東国を二カ国に分割して南を上総、北を下総とし永く国境とせよと命じられた。人々は御徳恩に浴し深く敬ってこの神を国家守護神と仰ぎ、東国鎮護征夷神八劔神社とし、天神社を併せ祀って崇敬した。大正二年四月神饌幣帛料供進社に指定される。元小弓村の総鎮守だったが、南北に分村するにあたり南生実の鎮守となった。 (「千葉県神社名鑑」より)

「稿本千葉県誌」による八劔神社の由緒

同郡(千葉郡)生實濱野村大字南生實字本郷に在り、境内五百八十五坪、日本武尊・天照皇太神・大巳貴命を合祀す、創建年月詳ならず。もと生實町の総鎮守なりしが、南北分村の後、單に舊南生實村の氏神となれり。大正二年四月幣饌料供進指定。(「稿本千葉県誌」より)

 

この神社は由緒も含めて非常に有意義な存在に思える。たどり着けて良かった。

古代東海道 下総国③ 千葉市中央区南おゆみ野(千葉中央遺跡通り)

 長妙寺の先、茂原街道旧道、同バイパスを横切って直進し、発展途上地域を超えて浜野川に達する。

いくつかの候補の橋がある。仲良し橋、清流橋、御手洗橋もあるが進むルートに直結するのは南おゆみ橋。

渡った先のこのルートの右側はすごい。

後で立ち寄る千葉市埋蔵文化財調査センターからもらった資料に記載されている図はわかりやすく秀逸。

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グーグルの地図で見ると以下のとおり。

なお、グーグルマップはルート探索にとても役立つ。ヤフーマップより格上なことは否めない。

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 この先、現江戸川を超えて東京都江戸川区に入ると東西にまっすぐな上小岩遺跡通を通ることになるが、南おゆみ野からまっすぐ北上するルートはそれ以上の深い歴史性を感じさせるもので○○遺跡通りと命名してもいいのではと一人思っている。

 そうだ、江戸川区の例に倣って千葉市中央区遺跡通り、少し縮めて「千葉中央遺跡通り」と言おうか。勝手なネーミングです。

千葉寺、亥鼻を経、吾妻橋通ってJR千葉駅そば市民会館まで直進します。

 以下続く

古代東海道 下総国② (古市場)高嶋天神社と長妙寺橋

村田川にかかる長妙寺橋を渡る。そこは割と普通に見える町並み。

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せっかく、渡るのだから同じ名前のお寺を見てみようとすぐ右折。

おや、途中、ひなびたいかにも村のお宮という感じの神社があった。

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ところが、

平安時代から続き、千年の歴史を持つという。

しかも菅原孝標5代前の菅原道真本人をまつるというではないか!

ちょっと出来すぎ。

案内板から引用させていただくと

古市場天神社の周辺は、かつては「高嶋(たかじま)」と呼ばれ、これは平安末期から鎌倉初期にかけて、千葉氏の家臣「高嶋恒重」の館があった(菊間館跡または高嶋館跡)ことからと伝えられております。恒重が治承年間(一一七七~一一八一)にこの地に神社を建立し、道真公をお祀りしたといわれております。

 寺社はそれこそ星の数ほどあるが、ほとんどは数百年の歴史。千年に及ぶというのは多くはない。

建立は1177年としても更級日記の150年後だから彼女が知るはずはないが。

 

少し先を行くと長妙寺

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日蓮宗のお寺で創建時は不明とのこと。

高嶋天神社の方がアウラを発散している気がする。

 

なお、村田川の北側は下総と言ったがこの両寺社は現市原市(旧上総国)。どううこと?

24号線にかかる村田橋同様、ここでも河川の流れがかなり変化(南下)しているということか。

 

 

 もう一度地図を。

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 ところで更級日記を考察するうえで (古市場)高嶋天神社と長妙寺橋をまな板に載せる人などいないと思っていたが大著「更級日記の研究」で津本氏は両者を写真と地図に掲げている。何か感じるところがあったのであろうか。ただし、神社は「長妙寺脇の天神」とするのみであるが。

菊池古墳群をあげないで合点がいかないが、昭和57年の発行ということが影響しているのか。

 

古代東海道 下総の国① どこで上総・下総の国境を超えるか V2

上総、下総両国の国境は村田川。

現在は市原市千葉市の境となっている。

古代の人はどこで川を渡ったのであろうか。

古代東海道のルートを房総往還に重ねる人は以下地図中のAとする。

 

 

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ただし川が変化しているので村田橋は埋まり、新村田橋に移っているが。

 A付近を拡大すると

 

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元の河川位置は公園となり、記念の案内板も。

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私は内陸のB付近ではないかと考える。


☆Bあたりとする理由

 囲碁・将棋ではないが、次の手、その次の手と考えていき、それを現在とるべき手(ルート)に還元・選択していくべきではないか。

 歩き旅は点と点を飛び渡るものではなく、連続した線を丁寧にたどるしかないもの。

ある箇所でどうしても甲地点を通過せねばならないならその前に歩くべき線は決まってってくる。それを乙とするなら、その前に歩くところも決まってくる(丙)。

 

 荷物を携えて長距離を歩くのは難儀そのもの。誰でもが、少しでも近道をしたい。

 平地での近道とは何か。最短距離は2点を結ぶ直線性しかないだろう。

高速道路のルート選定と古代の官道がなぜか近いというのもそんなところにあるのではと考えている。

 千葉の河曲駅(駅制)から直線性に留意しながらさかのぼりながら見ていくと自説では☆Cあたりまでくる。

そのあたりは律令制が敷かれる前、菊麻豪族の支配下でもあった地域である。古墳その他の遺跡も連続している。もともと人が往来し道ができていただろうし、そこを官道に指定してもおかしくないと考える。

 

 ただし村田川と浜野川にはさまれたBとC点の間、特に茂原街道(バイパス)北側は2021年現在でも低湿地というか荒れ地状態のところが多く、この箇所の確固たる旧道は認識できない。

( 更級日記に低湿地帯武蔵国の藪漕ぎ描写があるがここ千葉の風景を拡大したような状態であったのかもしれない。)

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その時々の改変が多い、一種刹那的利用がされていた道路だったかものかもしれない。

 次の地図に橋名は出ていないがとりあえず菊間古墳群の真下にある現「長妙寺橋」を渡って千葉市南生実町(みなみおゆみちょう)をめざして北上することに。

ただしわかりやすさの点からは左右の大きな古町橋や古市場橋を渡った方が得策かも。何しろ明治期まで橋はかったのだからこだわる必要はなかろう。

 

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上総の国⑫の5 菊間最終: 阿波能須神社と菊間藩陣屋跡

菊間でずいぶんかかったが、最後に気になるところを2か所。

其の1

菊間国と言ったら豪族→律令制下での国造と古代の話で終始するだけかと思っていたらなんと江戸末期から明治初期にかけて菊間藩の存在も話題になっている。

藩主は老中にもなっている水野氏の一族らしい。

菊間という地名の現役としての驚くほどの長寿に驚く。

菊間藩の陣屋跡が残っている。(後記)

 

 

其の2

安房にも関連するらしい阿波能須神社がある。

こちらか始めよう。

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左下ガスタンクの先二つ目の右折道路に入った。

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それにしてもせっかくの遺跡のそばに下水処理、県営団地、ガスタンクと景観を台無しにするようなものを作りすぎてはいませんか。景観どころかその工事自体でかなりの遺跡を削り取っているようだし。

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狭く極端に曲がりくねった一車線。歩きか自転車かせいぜい軽自動車でないと。

逆に言ってその道のありかたが古代の雰囲気を残してくれているが。

既出地図中星印をつけたお寺の北方と把握するといいかも。

狭い路地の目の前に突然現れた。

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どうみてもおかしい地形。周りを削り取らないとできないのではないか。

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この神社のいわれ等については紹介するブログも結構あるので参考になろう。

 

 菊間藩の陣屋跡

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wikipediaの下の説明では簡略に過ぎるが、まさか徳川家達や沼津藩の名前が出てくるとは思わなかった。

 

明治元年(1868年)5月、徳川家達駿府藩に移ったことにより、それまで沼津藩主であった水野忠敬の所領5万石のうち2万3700石が上知となったため、その代わりとして上総国市原郡菊間において2万3700石が与えられたことから菊間藩が立藩した。忠敬は新たな藩庁の建設や藩校の創設に尽力している。明治4年1871年)の廃藩置県で廃藩となった。

 郷土史家にかなうものなし → 菊間藩

場所は例によってわかりにくい。有名だからすぐわかると思うのは軽率!

冷泉家樋口一葉旧宅でも皆そうだった。

千光院のすぐそばと思う方がわかりやすい。

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陣屋跡は長方形の敷地。ただしこの石碑は誤解する人もいるようだが戦争で亡くなった人の慰霊塔。

 

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むしろ道路の反対側にある石碑の方に水野公の名前が出ている。

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 この藩主、短い期間だったが、かなりやる気のあった人らしく、また沼津から移住してそのまま住むようになった旧藩士も少なくないようだ。現菊間小学校は当初旧藩士が教師になったらしい

 それにしても150年はちょっと前のこと。顔を見知っている人の話があちこちから出てくる。末裔といってもさほど古くないが、実業家出身で著述家になっている人もいる。

上総の国⑫の4 あたりの雰囲気と菊間天神山古墳 

 北野天神山古墳と菊間天神山古墳があり、紛らわしい。

後者について周りを探したが見当たらない。 その過程でさまよい、地域の雰囲気もつかめたが。

普通の農家らしい農家もあることはあったが多くはない。

豪農、お金持ち、普通の市民の家がポツポツという感じ。

 大型太陽光発電基地が目立ち始め、それを憂うる人もいるようだがパネル架台は基礎が浅くいつでも現状復帰が可能。むしろ、立て混んだ狭小建売住宅の方が問題に思う。

 とにかく千数百年以上の歴史を持つゾーンなので道が狭く、ところどころタイムスリップして過去に引きずり込まれるような印象を持つ個所もある。

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 これって、四国遍路でも同じ思いをしたことがある。女性はもちろん、男性でも一人歩きだと怖いと思う道の入り口がなんか所かあった。

 

 

菊間天神山古墳がわかりにくいのはいったん台地を下がり間に広めの道があるからだった。地図をしっかり見ながら歩けばいいのだけど。

探索するときは歩くに限る。妥協しても二輪車限定。自動車は向かない。

 

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排水処理場という古代のロマンにふさわしくない施設を見下ろす形で存在している。

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夕刻近かったが、たまたま道幅あるところを見つけて実踏等へ。

 

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周囲には縄文後期から平安末期にかけての遺跡が多いとのこと。1500年どころではない。

平安京中流貴族など新参者だったわけだ。

長い間にわたって土地の人が歩いた道は官道が規定される前からあったわけで

獣道を超えるレベルであったはず。

この立て看板の脇から登ってみる。暗く急峻でちょっとしたミニ軽登山。

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鳥居があった。こちらが本来の入り口か?

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降りてみたが私有地っぽいので引き返した。

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西側(館山道)側から入ろうとしても案内表示がなく極めて分かりにくい。

目印をお教えするとしたら宣伝看板があるここぐらい。

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狭いどぶ化した水路脇に石柱があった。

市原村と古市場の地名が読めるが明治以降の新しいものと思う。

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石に刻めば永年持つと思う人が多いようだが、想像以上に劣化は進み、文字の判読不明は早い。四国でも遍路関係の古い石柱はほとんどが判読不明だった。

しかるべきところに紙文書を保存したほうが永らえる。あるいは土を盛るなど,形態で意思を表すなど。