古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国㉒ 花見川流域と愛宕山古墳その2 徒歩、古老、地元の情報発信誌

不明点が多いので再度出かけることにした。

一般的文献で不明のものの探索には①徒歩による五感的推測 ②人に聞く(古老) ③ ②を集約したような郷土史家による情報のまとめがあれば最高に思う。

今回曲がりなりにも整った。

 

刑事は、事案の真相解明のためには犯行現場を何度も訪れることが必要という。

土地の探索も全く同じに思う。

そしてさらに現場をゆっくり、じっくり歩くことが必要に思う。

スピードが速いとあるものも見えなくなる。

自動車よりオートバイ、オートバイより自転車、自転車より歩き。

 

一時、街道ブームがあり各街道について著名人にエッセイ的なものを書かせる企画があった。近世東海道については特に多い。

委嘱を受けた作家先生は既存の文献に目を通すだけ。良くてハイヤーをチャーターしてざっと現代東海道を垣間見る程度。そんなチャチャッとした取材で得られるものはおのずから限界だらけと思う。

 

二度目は京成検見川駅を降りて歩いた。

花見川にかかる浪花橋を渡る。

とりあえず堤防を下る。それにしても低い。検見川低地という言葉が実感できる。

ひょっとしてここら辺は天井川

川に沿って北上し丘の周囲に出たいが、家が立ち並び、空き地の進入できそうなところ

には「私有地! 立ち入り禁止」の立て看板が。

一か所入れそうなところがあったので進んだ。

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と、「何か御用ですか」と不審者に思ったらしく年配男性(90代?)から不審尋問。

事情を説明し、この丘はもしかして愛宕山古墳ではないかと思って」というと答えてくれた。

先方も聞かれて悪い気はしないらしくかなり話が弾んだ。以下一部を紹介。

 

・この丘は昔の大久保城というお城の物見(櫓台)があったところ。古墳の話は聞いたことがない。

 

この丘は川の対岸から続く段丘の先端で花見川(人工河川)の整備の過程(昭和25年から昭和44年)で掘削され残った部分!

・掘削した土は幕張メッセ埋め立て工事の上層に使われた。

さらに話は戦争のことにもおよび,氏の半生を聞くこととなったが、受け答えに先日千葉公園内での旧陸軍の戦跡図を見ていたことがずいぶんと役に立った。

 

昭和19年東京から当地に引っ越してきた。(もともと親の代から花見川にかかる台地上に農地を持っていた模様。)

 それらはお上に騙されるように召し上げられた(といっても今なお広大な敷地を保有している様子)

・兄は空襲?で死んだが民間人だったので何の補償もない。軍属ですら手厚い保護(軍人恩給)をもらえたのに理不尽。

・花園中のところには千葉工業高校があったが、屋根の形状が工場か兵舎に思われたらしく空襲を受けた。

・戦車隊があり戦車から対空砲撃を加えたが届かず弓を引くように弾は落下するだけだった。

・千葉は軍の基地が最も多かった。あの関東軍の本体は千葉だ。

・「塚本○○」を知っているか?と聞かれたので千葉駅前のヨドバシカメラが入っている大きなビル「塚本総業」のことかというとそうだとの返事。

 作ったのは塚本将軍という元職業軍人とのこと。その将軍について何かを言いたげだった。

 ウイキペディアで検索すると陸士出身の塚本素山(清)という人が出てくる。小佐野とか藤原弘達言論弾圧とか懐かしい文言が並んでいる。

 

猿田神社に行って見たいというと、あの曲がりくねったかっての花見川を超えた先の道に入ってすぐと教えてくれた。

 

 

これが蓋をした旧花見川の一部か。歩かないとわからないかも。

 

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上り坂の奥に小さな祠が見えている。

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これか。お金持ちのお屋敷の片隅にありそうなレベル。

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海抜は6.5m

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もう一つ愛宕山神社を拝見したいが地図を見てもわからない。通りすがりの男性に聞いてあの電柱を右折してすぐと教えてもらった。

わからないところも人に聞くとすぐわかる。樋口一葉旧宅もそうだった。

 

 

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さて、後日実に優れた冊子を目にすることとなった。

「はなぞの 周辺80年」という簡易製本的なもの

 

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「花見川 地元を学ぶ会」が2018年に発行したものだが他に書かれていない地区80年の

歴史を書いている。

80年より前を考えるにも実に有用。少し紹介しよう。

まず当方が気にした丘当たりのことについて。

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S字型の流れを直線にし、西に残った丘陵部が古墳ではと誤解した個所のようだ。

この影響で行政的に川の西側もいまだに東側の飛び地となっている。

丘の通称は烏山(からすやま)とのこと。

なお川の掘削は印旛沼関連の公共工事として江戸時代から行われていたがすべて失敗

し、戦後にまた再開して昭和40年代にようやく完成している。

 

付近の小字名地図が掲載されていたが、これは助かる。

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大久保城物見址の地点の小字は大久保。

花見川東側、東大運動場の南西にあって重要な遺跡とされている直道遺跡は官道らしい

直道だからではなく字名が直道だから。

その右側の横塚遺跡(現公民館)も小字からのネーミングとわかる。

 

図書館はどこも書籍にあふれ、寄贈の申し込みをお断りするのに苦労しているらしいが

地域資料については別次元。ほかにない資料だから素人のレジュメ程度でも収蔵すると

ころが少なくない。