古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

上総の国 ⑨ 光善寺廃寺

山木三叉路から入るとすぐ297号道路左側に光善寺の看板が目に入る。

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光善寺廃寺と現役光善寺の併存のせいであろう。

国分寺も本来は同じはずだが。

左折して5~60mくらいで左側に階段状の入り口がある。

 

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昭和期再建?の薬師堂

これが更級日記の記述に対比される。

 

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上総国分寺より前の時代の瓦も発掘されており歴史・考古学の研究者が取り上げる重要な事項のようだ。

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由緒正しくても固定客のいない旧跡の維持は大変そう。

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敷地は狭く、裏側の土塁状箇所は危うい(阿須波神社の崖もそうだ)。

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国道の反対側(西側)は低くなっておりその先が高台になる。その一角、見えないが写真の左方向に阿須波神社が位置する。お隣さん同様か。

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上総の国⑧ 阿須波神社と光善寺廃寺 V3

上記社寺を上総国府位置比定の根拠に掲げる研究者が多い。

津本氏が紹介する鴇田恵吉(ときたえきち)氏の言説は次のよう。

阿須波神は万葉の歌から国府の庭にあったと考え、上総国府を市原台地と想定し、更級日記の薬師堂は光善寺薬師如来縁起や柳楯神事から推して光善寺の薬師堂と判断。

この薬師堂の背後にある御手洗井を、更級日記の「てあらい」などした場所とみて、国司の官舎は光善寺後方の字、要谷であろうと提唱する。

 

国道297号大多喜街道、東京に向かって左側の台地の際にあるのが阿須波神社、道路右側にあるのが光善寺だ。

 

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 阿須波神

グーグルの航空写真はこうだが道は狭く、案内表示などなくてわかりにくい。

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 297号から入るポイント地点はここ。表示は全くなし。

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下の条里制遺構の端を歩く道だとここから入るがここも気が付かない。怪しいと思って登ったらそうだった。

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遠く防人に赴く人を待つ歌

 

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条里制遺構、高速館山道、その先に湾岸の工場街が見える。千数百年前は海と富士山か。

 

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台地下の道を進む場合の雰囲気を。

自動車がほとんど通らず心地よい。

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神社のあるところで下の道から仰ぎ見ると。

2019年秋の台風で崖が崩れそうになっていた。

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保全しておかないと万葉遺構も危い。

少し先に遺構の表示が。

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横切って海方面に進む道を指しているのか?

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 私は直進したい。すぐ先で山木三叉路に合流する。

上総の国⑦ いまたちと進行経路

 受領の赴任旅行にあたっては、吉日に吉方に向かって家を出る出門と実際に吉日に旅を始める進発の2段階のステップがあるとのこと。

更級日記では、9月3日に「いまたち」に移り、15日に平安京に進行を始めている。

 では、「いまたち」とはどこ?

 ここでまた論争が激しく、佐々木虔一氏(古代交通研究会副会長)は8説を掲げ、八幡の飯香岡付近の砂丘上説を採る(房総古代道研究14頁)。

山路直充氏は飯香岡八幡宮が所在する八幡宿に推定していた立場を五井(現養老川右岸)に再推定し、八幡宿については飯香岡八幡宮も含め、中世国府との関連でとらえるべきではないかと論及する。

氏が掲げる地図は以下のとおり

 出展 房総の考古学(史館同人編 六一書房)

 

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私は今後の進行ルートを考えると、わざわざ、田畑の中を通り(現条里制遺構)、海岸付近まで行く必要に乏しい気がする。

今でも歴史が濃厚に詰まっているような感ある光善寺廃寺、阿須波神社付近で終わる台地を下り、そのまま北上したのではないか。

 

 なお、傾斜地、台地のすそ野に並行するように走る道にはなぜか古い道が多くみられる。

次回、阿須波神社探訪と合わせてその雰囲気をお伝えしたい。

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 現在の道路と照らし合わせた国分尼寺から先のルートは次のように考えたい。

南の国分寺通りを道なりに北東に進むと297号大多喜街道にぶつかるが、その手前あたりに稲荷台1号古墳がある。ここは有名な刀剣が発掘されているところでぜひ立ち寄りたい。

 

 山木交差点に向かって297号で進むのも悪くないと思うが297号に入らず手前の稲荷台通りで北北西に進み、舘山道の手前で右折して向かうのもよいのではと思う。

稲荷台通りは一部発見されている古道に重なるところもあるやに聞いているし。

 

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上総の国⑥ 国府域を出てから通る道

 上総の国府場所については江戸の時代から現代にいたるまで論争があり、大別して4説になるようであるが、いずれにせよ区域内では仕事、生活の必要があり必要に迫られて大小、方向の様々な道が利用されていただろう。

 では国を出て京にへ向かうにはどのルートで?

 

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今現在の交通網は、西側東京湾に近いほうから

 国道357号(湾岸道路)OR16号

 県道24号(主要地方道千葉・鴨川線)

 JR内房線

 館山自動車道(高速) がある。

これらに斜めに突き刺さる形で交錯する国道が297号だ(大多喜街道)。

上図参照。

国道297号(大多喜街道)は遺跡の多い箇所を通り、しかも、国府候補の「郡本」「能満」にもかかわるような道順なのでわかりやすい道を一つというなら無難な選択だと思う。

 しかし、重要な地点「山木交差点」までならともかくその先で左折して県道24号(主要地方道千葉・鴨川線)に入ってこの道を右に進むという考え(採用する方はかなりいる模様)は支持できない。

県道24号はいわゆる房州往還道で江戸期にはかなりの隆盛を示していただろうが、そのこと、また飯香岡八幡宮の存在に引きずられてはいないか。

県道24号はあまりに海に近く、先で357号と合流しているし、その手前で渡る村田川は流れに変化が多く、現に昔の村田橋は公園になり、手前の橋を渡るようになっている。

 もう少し内陸側、と言ってもわずか2キロほどであるが館山自動車道の通るラインに沿って北上していると見たい。

館山自動車道の右(東側)には丘陵が続き、ここには古い豪族の古墳類も多いこと、さらにこのルートを選択すると先方の下総の国千葉郡で想定するルートにも素直につながることになる。 

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上総の国⑤ 国分尼寺展示館

展示館の中には大切なことがわかりやすく説明展示されている。

説明スペースが限られているということは新聞記事と同じで冗長に流れやすい書籍にはない長所をもたらしている。

室内撮影可ということも学習に効果的だ。

 

展示館の窓から復元建物が見渡せる。

目に入る建築資材のサンプルと説明が手元に置かれている。うまい構成だ。賢いぜ。

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その他、主展示室内の掲示資料

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国分寺より相当前に建てられている寺がすでにあり、そして豪族、郡司,国造の理解が大切とわかってきた。

 

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市原郡の光善寺、菊間廃寺、千葉郡の千葉寺葛飾郡弘法寺は古代東海道を考えるにあたっても留意すべきところと考える。

 

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上総の国④ 国分寺台町の風景と国分尼寺V2

 


市原市役所の両脇に国分寺国分尼寺がある。

国分尼寺は長いこと遺跡状態であったが近年わが国で最高レベルの復元がなされ、注目されている。

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市役所と消防署が並んでいる前を通る。(この風景、四国で見たことがある。)

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町並みは整然。道路は広い。国分寺台というところは高台の平坦地で住宅地としては理想的。(都心には遠いが)

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四国遍路の時もそうだったが古い道を歩きながらも現在所管する県や市の財政力や意識による古いものへの取り扱いの差異を目の当たりにすることがある。

市原市はその高さに圧倒される。

ここで昔の郡名も見て見よう。

上総の国の最北が市原郡。下総の国の南端が千葉郡となる。

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赤い印は国分寺以前からあった寺や国衙。菅原ファミリーも当然、光善寺、菊間、千葉寺を耳にし、その付近を通ったことと思う。

 

まもなく上総国分尼寺跡地に到着。少し離れて駐車場もある。

手前の展示施設の立派なこと。

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入館者は私一人。

親切な職員が私一人のために映画を上映し、説明してくれた。

このあたり、法隆寺そばの藤ノ木古墳を見学した際、夕刻に立ち寄った斑鳩文化財センターの女性職員が一人しかいない自分にビデオを上映してくれたのと同じ。

ありがたいことです。

 

さて、国分尼寺

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よくぞ建ててくれた。

全国の国分寺国分尼寺旧跡を紹介する本で絶賛していたがそう思わずにはいかない。

 

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おざなりでない広さとグレードだ。

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特にこれがフオーカスポイントとなっている。

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細かいところにも最新の配慮

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平城宮跡に負けていない。

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(続く)

上総の国 ③上総村上駅から戸隠神社そして国分寺へ V2

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国庁、国衙国府

山路直充氏は国府を考えるにあたって国庁、国衙国府域に分類する提言をされている。(房総の考古学p165)

 国庁は国司が政事を行う政庁を区画した空間

 国衙は国庁とその周辺に曹司が展開した空間

 国府域は国衙とその周辺に広がった国府関連の施設,市、寺、場合によっては所在郡の郡家と関連施設,駅屋などが展開した空間として関連する人々の集住を含めている。

 わかりやすく、なるほどと思える。国府域になれば、道路の視点も入ってくる。

 上総の国府域には国分寺国分尼寺は当然に入り,氏はいまたちの候補地五井も含めている。

 

さて、村上駅から国分寺に向かうことにして驚いたのが近くない台地まで道がまっすぐなことそして条里制というのかあたりがきちんと整理されていることだ。国衙候補地になることもうなづける。

 

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その名も怪しい国府橋がかかる浅い小川はきれいではないがそんなには汚くなかった。

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右に曲がって県道140号を進むと上下神社諏訪神社に達するがそこら辺一帯は諏方台古墳群として知られているところ。今回はいかなかったが市原市広報誌4月号は紹介している。

 

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少し傾斜の始まっている突き当りのこんもりした丘は戸隠神社。その右を進むと雷電池に至るがそこは後回しして左の坂道を上る。

           

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左に回って坂を上り始めるとすぐに簡素な鳥居が見える。戸隠神社だ。

覗いてみる。

高台で見晴らしもよい一等地だ。富士山信仰もある模様。

 

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裏から入ってしまったようだ。ここら辺はすべて富士山の見える西が正面の感じ。

遠くに高速(館山道)。その先は東京湾の方角。

 

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戻って坂を上る。道路突き当りの交差点正面に見える空き地はすでに旧国分寺跡。

門前も周りもよく整備されており、高台の立地もあって気持ちが良い。

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弘法大師像や、南無大師遍照金剛の文字を見ると四国遍路を思い出してしまう。ただし、太子堂は見られなかったが。

国分寺真言宗豊山派となっている。ここら辺は豊山派が多いようだ。四国88か所でもそれなりにあった。

茅葺の薬師堂は仏教建築としてトップクラスの美しさを感じる。

 

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坂を下りて大池に

 

 

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更級日記の研究

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先日、ひさしぶりに神田の古書店街を歩き、この大著を目にした。

1500円とお安かったので購入。

 

本来は文学の先生であるが、この日記に関するあらゆる側面に綿密なる考証を加えている研究論文である。

 

地理的側面のことも詳細で、国府位置や帰路の経路についても独自の推論を述べている。

しかし、松戸から埼玉の大宮氷川神社へ進むルートは?

東武野田線、JR武蔵野線のような感覚。

 

日本古代史研究辞典

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「はじめに」にある問題意識でもわかるが(*)、それへの手助けになる平易に総合的に書かれている良著と思う。

 

(*) 研究の深化と拡大は、必然的に日本古代史研究の全体的状況を把握することを困難にし、新たに研究を始めようとする学生のみならず、専門の研究者にあっても途惑いを覚えざるをえないありさまである。

 

資料、文献等の記載も丁寧。執筆者の大半は大学教員であるが、宮内庁書陵部の職員や公立中学校の事務職員も含まれる。

1995年初版 4800円東京堂出版

京への道 上総の国 ②小湊鉄道:上総村上駅

市原市の中心部は近代的、良質な住宅街となっているが町はずれのこの駅はさびれ,みすぼらしい状態だった。

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昭和2年の駅舎らしい。それを魅力ととらえることもできるが。

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  あたりを見ていると、少し人が集まって来た。

  おや、予期しない展開が。

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鉄道ファンが喜びそうなシーンとなった。